隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

原作者・中の人が、必要以上に表舞台に出てくることの是非

この記事の論点

以前、「アニメの出来不出来=原作の出来不出来」という記事で、以下のようなことを書きました。

アニメのまとめブログ・感想ブログ、twitter2chの各種スレ、オタク文化の一般化…等々、多くの要因が重なり、個人の意見が公に出てきやすくなっていることで、「視聴者=批評家」となりやすい現状があります。

そういった個人の意見が集約されマス(大衆、大勢)の意見として押し寄せてくる現状が、原作者に取ってはプレッシャーとなっている、と氏は指摘する。

記事を読んでいただけると分かりますが、氏とは松智洋さんという方で、迷い猫オーバーラン!というライトノベルの作者さんです。


上の記事は原作者の立場からの意見ですが、反対に視聴者の立場からすると、別の問題も見えてくると、私は感じました。

  • 今までは、原作者や中の人の意見というのは主に雑誌やインタビューなど限定された媒体から発信されていたように思える。ある種、稀少価値のようなものがあった。
  • しかし、ネットの発達等々、多くの要因が重なり、原作者・中の人の意見が公に出てきやすくなっていることで、視聴者が意図せずとも作品の内情を知りすぎてしまうという現状がある。

原作者・中の人が、必要以上に表舞台に出てくることの是非についてを、考えてみました。皆さんは、どう思いますか。

メリット

まず、前提として、中の人の意見というのは「貴重である」と考えています。例えば、アニメ監督のインタビュー記事が人気なのは、アニメ監督がどんな人なんだろう、どんなことを思っているんだろうということが、視聴者からすれば分かりにくいし得る手段が少ないからだと思います。アニメ監督に限らず、各スタッフ、声優さん、それこそOP・EDの作詞作曲家に及ぶかもしれません。

この前提に立つならば、私たちがそういった中の人からの情報を得る手段ができたことは、喜ばしいことだと思います。今まで雲のような存在だった人たちが、twitterで当たり前のようにつぶやいている時代です。週刊連載漫画家が、ブログを書いている時代です。中の人の様々な意見を、容易に手に入れることができますし、今までに無い情報を手に入れることもできるでしょう。

デメリット

では、デメリットは何か。それは、表舞台に出すぎてしまうことだと私は思います。つまり、本来ならば知る必要のなかった事や、知りたくなかった事、もしくは知りたかったことを、視聴者が容易に知ることができる、知ってしまう、ということです。
このように書くと、「それってメリットじゃないの?」と思われるかもしれません。ですが、少なくとも以下の2つの点で、デメリットであると論じることができると私は考えます。

  • 原作者や中の人について、視聴者にとっての稀少価値が下がる
  • 原作者や中の人の言葉は伝家の宝刀である

稀少価値が下がるとは?

中の人というのは、視聴者からすると、雲の上のような存在だ、といっても過言ではないと思います。稀少価値という言葉は、「少なくて珍しいために生じる価値」という意味があります(提供元:「デジタル大辞泉」)。容易に手に入る情報に、稀少価値はありません。

稀少価値が下がるとどうなるか? 様々な影響が考えられます。例えば、「原作者に失望してしまう」パターン。○○な人だと思っていたのに、twitterの発言を見て幻滅した。例えば、「原作者を必要以上に身近に感じすぎてしまう」パターン。等々。
さらに、こんな問題も考えられます。「言葉に重みがなくなる、安売りされているイメージができる」。

伝家の宝刀、とは?

伝家の宝刀とは、「家に代々伝わる大切な刀。転じて、いよいよという場合にのみ使用するもの。切り札。」という意味があります(提供元:「デジタル大辞泉」)。中の人の言葉は、その作品についての伝家の宝刀の発言力があるでしょう。それは時に暴力にもなるし、良い意味での鶴の一声になるかもしれません。

例えば、あるアニメが放送されています。そのアニメは、理解が難しいところが多く、ネット上では様々な考察が行われていたとしましょう。だんだんと明かされていく部分もありましたが、決定的にこうだ!という情報は提示されませんでした。こんな状態の時、ある中の人(それは監督かもしれませんし、声優さんかもしれませんし、○○かもしれません)がtwitterでこんなつぶやきをしました。「その内容は△△なんだよ。□□っていう解釈はおかしい。」と。伝家の宝刀は、圧倒的な暴力があります。いとも簡単に、いや、視聴者を苦しめて苦しめて、そして視聴者の心を折ることもあるかもしれません。
逆もしかり。その言葉によって、すべてが解決、上手くいくこともあるでしょう。

私にとっての具体例

上の例で言うと、悪い例に分類されると思いますが、私がつい最近、まさに心が折れてしまったことがありました。もしよろしければ、ご一読を。

(略)
だけど、その大元にある、根本が、ある意味で第三者的な意見から圧倒的に覆される、さらにそれが最強に別格の発言力を持つ場合、心が折れる。いったい誰が、アニメ化された作品についてその原作者と批判合戦をやりたがるのか。

視聴者の取捨選択なのか、中の人の取捨選択なのか

メリットのためにデメリットを受け入れろ!というのは暴論だし、デメリットが発生するから全て止めましょう、というのもおかしいです。
情報はフィルタリングすればいい、見たくなければ見なければよい、という意見も当然にあるとは思います。が、全てをシャットアウトすることは難しいでしょう。見出しでネタばれされる世の中です。
逆に、中の人がもっと考えて行動しろ、コンプライアンス作れ、という意見もあるでしょう。ですが、それは他人に責任を押し付けすぎだと思います。それこそ、発言の自由を私たちがどうこうする権利はありません。


知りたいという欲求と、知ってしまった時の感情。皆さんは、どう思いますか。