隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

『涼宮ハルヒの驚愕』を読んで、自身に形容しがたい嫌悪感を催した方へ

本記事は『涼宮ハルヒの驚愕』及び『初回限定版特製小冊子』のネタばれを含みますので、まだ読了されていない方はお気をつけ下さい。

良く分からない気分

驚愕本編を読了後、わけの分からない何とも形容しがたい気分に襲われ何も手につかず、適当に近くにあった漫画を読みながら物思いにふけっていました。

しばらくしたら少し落ち着いてきたので、2chラノベ本スレを見たり幾つかの感想記事を読んだりしていました。すると小冊子なるものが存在することを思い出し、おもむろに読み出しました。

そして途中まで読み進めたところで、自分が感じていた良く分からない気持ちの正体が少し見えました。

自分自身への嫌悪感

端的に言うと、それは自分自身への嫌悪感だったのです。
ライトノベルに限らずですが、登場するキャラクターというのは創作であるためたびたびチート級の能力をもった設定が現れます。これは、特に思想についてのチート級能力を指しています。

涼宮ハルヒの驚愕』でチート思想能力が特に顕著なのは、国木田とそして佐々木というキャラです。こやつらは、まるで物事のすべての本質を知っているかのような会話をしやがります。世界の真理、物事の真理、人間の心理…。
訳の分からない横文字を使ったり、難しい言葉を使うだけではありません。そもそもの思考の仕方が、本質を知っている仕方なのです。


たしかに彼らは高校生であるため、ちょっと周りから浮いていたり大人びていたりというのは理解できなくもない、いやそれでも気持ち悪いですが。しかし、特製小冊子を読んで愕然としてしまいました。そう、少なくとも佐々木と国木田は、中学生から何も変わっていないのです、良くも悪くも。


特製小冊子『涼宮ハルヒの秘話』,pp14-15,佐々木の言葉より引用.

僕が洋楽が好きなのは、歌手の歌もまた楽器の一部に聞こえることなんだよ。ドラムやベース、ギターのメロディとシンガーの声はまったく同種のものなのだ。すべてをひっくるめて曲という作品の構成要素だと感じている。何語だっていい。たとえそれが日本語の歌詞であろうと、僕は歌い手の声さえ楽器の一部だと見なす習慣を持っている。

少し話が逸れたので戻します。嫌悪感についてです。
多くの人がそうかは分かりませんが、私はライトノベルを読んでいると現実と空想をごっちゃにして考える時があります。今回で言えばそう、「あぁ、生半可な努力では佐々木や国木田のような考え方をすることはできないのだろうな」とか。

なれない、だけどなりたい

物事の本質に近づきたいというのはある種人間の欲求なのかなと思います。誰しもそんな欲求を持っているけれども、しかし中々本質には近づけない、と。
そういうところへ、創作思想能力チートキャラが現れると「佐々木のような本質をつく考え方ができるようになったら素晴らしいな」と無意識に考えてしまうのです。

だがしかし、残念ながら創作思想能力チートキャラには生半可な努力では近づくことはできない、できないのかなぁ、という思想に今度は繋がるわけです。自分の理想と、現実、リアルとのギャップにもどかしさを覚える、ジレンマを感じる、嫌悪感を感じる、と。


創作と現実を絡めた自己嫌悪は、おそらく私が改めて文章にしなくてもよいものだと思うのですが、しかし自分で感じてみてわかるこの気持ち悪さです。

古泉も思想チートキャラ?

佐々木も国木田もチートキャラですが、もう一人チートキャラがいました、そう古泉です。しかし面白いことに古泉の思想からは自身に嫌悪感を感じないです。

なぜか。
それは古泉は自分の思っていることをキョン、もしくは読者に対して「理解させようと」話すからです。対して佐々木や国木田、特に佐々木は「自分の中で完結させやがる」のです。この違いは大きい。

古泉に解説キャラというイメージが付くのは別におかしいことではなく、事実だからなんですね。対して佐々木はどうか。自分の中で思想活動できていればそれで良いというスタンスなのです。だから佐々木は決して解説キャラではない。
ただし国木田は、ちょっとばかしキョンに理解させようとしている節はあるようには見える。ちょっとばかしだけれど。

終わりに

本日の午後に驚愕を読み終わって、夜9時くらいまでずっと嫌悪感について考えていたのですが、何となく答えが出て納得ができたのですっきりしました。
本記事では驚愕の内容については書きませんでしたが、機会があれば感想を書きたいと思います。