以前書いた、異常こそ常識、『あの花』は異常こそが正常になっている、という記事に沢山コメントを頂きました。
特に上記事では「ぽっぽは視聴者の代弁者」とまで言い切りましたが、この点に幾つも指摘を受けました。その後、1話から6話まで見直したことで自身の考えが浅かったことを理解でき、言い切りすぎたことを反省しました。
今回は、今一度幼馴染達の罪悪感について考えたことを記します。
ぽっぽの罪悪感
好意を持っていた人間を自分が死に追いやってしまったかもしれないという罪悪感をそう簡単に忘れられるものだろうか
にょろさんのコメント - 異常こそ常識、『あの花』は異常こそが正常になっている
あの時のぽっぽの反応は、純粋にめんまのことを考えているわけではなく、他の幼馴染と同じく罪悪感から逃れたいという感情が読み取れるように演出されていましたので(目が泳いでいたうえ、必死になり過ぎ)、ぽっぽだけが正常な視聴者の代弁者で、他の子たちが異常という主張にはちょっと共感できません。
名無しいさんのコメント - 異常こそ常識、『あの花』は異常こそが正常になっている
これまでは、ぽっぽはそれほど罪悪感を持っていないのではないかと考えていました。しかし、とても重要なことを忘れていました。それはぽっぽが秘密基地に今も住んでいるということです。何を今更と言われそうですが、1話から見直すことでやっと気づきました。
果たして超平和バスターズに未練がない人が、秘密基地跡をねぐらにするのか。そう、こんなに分かりやすい形でぽっぽの未練が描かれていたのでした。
さらに掘り下げると、ぽっぽは超平和バスターズという集団や場所に強い思い入れがあるのだと思います。
のけもんに関連してあなるの所へ行こうと提案したのはぽっぽですし、「夏の終わりにみんなでめんまを探そうの会」を企画したのもぽっぽです。めんまが視えることに対してあっけらかんとした態度をとっていたのもぽっぽ。
ぽっぽは超平和バスターズのみんなで盛り上がることが好きで、それを忘れられないのではないか、未練があるのではないかと推測します。
めんまの願いを叶えるために行動する、これ自体にも楽しみを見いだしているぽっぽ。しかし同時に罪悪感も持っているわけで、その罪悪感が顕著に現れたのが5話最後の、「成仏させたい」のシーンだと考えられます。気丈に振る舞っていないと、自分を保っていられないのかもしれません。
罪悪感の見えやすさ
ぽっぽについて考えていて思ったこと、それは罪悪感の見え易さ見えにくさです。理解のしやすさとも言い換えられるかもしれません。
最も見え易いのはゆきあつとじんたんです。あなるもそれなりに分かりやすい。ですが、ぽっぽとつるこについては見えにくいと感じました。
なぜでしょうか。
仮説として、ゆきあつやじんたんは「個人」に対して未練があり、ぽっぽやつるこは「場所・仲間全体」に未練があるのではないか、ということを考えました。
具体的に言うと、「あの日あの時あんな事がなければ」に未練があるのが個人で、「あの日のような、皆でワイワイに戻りたい」と感じているのが「場所・仲間全体」です。
正直なところ、6話まで見てもつるこの事がまだ理解できません。ゆきあつとの関係は多少明らかになりましたが、心の叫びを読み取ることができていません。
おそらく、つるこも「場所」を大切にしているのかなと感じます。例えば何の意図もなく秘密基地跡にコーヒーメーカーを提供するでしょうか(4話)。コーヒーメーカーはもちろん個人でも使えますが、少なくともつるこは「ここ(秘密基地跡)で使って」と言って提供しているので、皆が集まることを期待しているのでしょう。なんともまぁ、細かい表現だと私は思うのです。
終わりに
見える、見えにくいに関わらず皆、罪悪感を持っているのだと改めて感じました。実に繊細な物語ですね、この作品は。
キャラクターがどんな感じ方をするのか、どんな思いを持っているのか、これを考えることは難しいですが、楽しくてなりません。