隠れてていいよ

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「結構忘れてる、だけど好き」が成り立つ理由

アニメにかぎらず、ラノベに漫画にエロゲに映画に……今まで少なくない作品を見てきましたが、そのカットその話その挿絵そのストーリーそのシーン……すべての作品について完璧に完璧に覚えているわけではありません。やっぱり人間忘れちゃう。
こういう話を言うと「そんなに好きなのに忘れてるとか」って言われることがあります。確かにそれは正しい。ただし、そうは言っても詳細を忘れてしまうことはある。

では何故、詳細を忘れているのに「好き」という感情が残っているかといえば、それはもう「体験したから」に他ならない。例え今、現在進行中でその作品を楽しんでいなかったとしても、少なくとも当時楽しんでいたことに嘘はない。


アニメ『境界線上のホライゾン』の最新話でも放映されたシーンだが、原作から引用する。トーリがホライゾンに、縫いぐるみを結びつけた後に続く会話のシーンから。

境界線上のホライゾン2〈下〉』,pp195-196.

「これ、確かにさ、外して保管しても、一ヶ月もすれば埃で汚れるし、……しばらくしたら見てもいられないようになって捨てることになるかもな」
「Jud.、では、そのようなものを得ることに何の意味が? 哀しみの押しつけでしょう」
そうだなあ、とトーリが言った。しかし彼は、
「でも、これを貰ったことや、身につけてることは、憶えてるよな? これから先」


ややもすると懐古主義だ、懐古主義・老害を正当化するためのロジックだと思われるかもしれませんが、そんなことが主張したいわけじゃない。
作品を好きという気持ちは消えてなくなりはしない、例えそれが詳細な記憶を伴っていなくても、少なくとも当時、その作品を楽しんで悲しんで何かを感じて何かを想ったことは、やはり事実なのです。
思い出補正のために過去が美化されることは避けられない。もちろんその過去を持ってして今の作品なんかを貶めるのは論外だけど、そうは言っても昔の作品を思い出して懐かしんで……という行為はとてもとても意味があるし、嘘はない。

「結構忘れてる、だけど好き」は成り立つ。