隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

こうやってラブライブを試聴することのハードルが上がっていく

自戒も込めて。


なんでみんなラブライブ!ってデタラメアニメ見てるの? 脳がスポンジなの? - 藤四郎のひつまぶし



やっぱり、駄目かもしれない。



あるアニメが、持ち上げられたりネタにされたり真摯に向き合われたり、そうやってアニメが良くも悪くも持ち上げられ始めると、そのアニメに対して、見ることのハードルが上がってしまうと思う。
まどマギが盛り上がりすぎたせいで、まどマギを見るのが億劫になった人がいるかもしれない。スマプリが「大人のお兄さんにも人気!」と話題になったことで余計に見たくなくなった人がいるかもしれない。アイカツは神アニメ! としきりに叫ぶ人が居るから、何か見る気なくなったわという人がいるかもしれない。あるクラスタで特定のアニメが盛り上がることで、そのクラスタに属している人に対してプレッシャーがかかっているかもしれない。かもしれないかもしれないかもしれない。

もちろん感じ方は人それぞれだから、ハードルが上がるとか意味分かんねーよというのは分かるし、持ち上げるなとかネタにするなとかそんなことは言うつもりもない。だけど、やっぱりプロレスは使い方を間違えると、間違ってアニメの視聴のハードルを上げてしまうのではないかと思った。ふと立ち返って、思ったのです。


例えば、なんでみんなラブライブ!ってデタラメアニメ見てるの? 脳がスポンジなの? - 藤四郎のひつまぶしという記事を読んだ時、私は嘘偽りなくこの記事を「愛のある記事だな」と思いました。一見disってるだけのように見えるのですが、ただdisるだけの記事でここまでは書けない。

  • しっかり見ないと、繰り返し見ないと、それこそコマ送りレベルで確認しないと分からないような点にまで言及している
  • 一点目にかぶるが、突っ込み一つ一つはきちんと見て自分で考えないと書けないものになっている
  • ちゃんとキャラクター名を書いている(生徒会長などの役職とかだけじゃなく)

とは言っても突っ込みどころがないわけではないし、理屈やアニメの技法的な部分、感覚的な部分で、やはりこの記事に対していろんな人が反応している。事実、私も書こうとした。
disる時って言うのは、「disってるくせにこいつ全然考えてないじゃん」といわれるのが最も屈辱だと思うので、そういう意味で上手く隙を残している記事であると言える。


で、以下の様な記事が出る。
まおゆうに真摯さを求める人がラブライブで真摯でないという話 - WebLab.ota


この記事に対して私ははてブコメントで「ちなみに私はalphabateさんのあの記事を見て恐ろしく愛があるなぁと思った人です、はい」と本気でコメントしましたが、この記事はまぁ読むと分かるんですが、これまた愛に溢れている。何の愛かっていうと、n_euler666さんからalphabateさんへの愛である…。

alphabateさんは、先のエントリを読んでもわかるけど、作品を繰り返し見て、原作を読んで、スタッフにも踏み込んで、作品を読み込む人である。

まおゆうに真摯さを求める人がラブライブで真摯でないという話 - WebLab.ota

あたりを見るとわかるが、これはdisに見せかけた持ち上げである。自分の論点を補強するためのものではなく、明らかにalphabateさんに好意を向けたものである。このへんの表現を見て「プロレスだなぁ」と思うかどうかは分かれると思う。私はなんというか、プロレスというよりも愛があるなぁという感想だった。

そして以下の記事である。
ラブライブ!の展開はμ’sの魅力をぎゅうぎゅうに詰め込むためのものっ! - 藤四郎のひつまぶし


相変わらず愛がある記事である。何が愛があるかって、論理的であろうとする部分はやはり紳士的なのである。自分の理屈に対して返された理屈に対してさらに理屈で返す、というのは、まぁなんと素敵なことか。
素敵なことか。だけど、この記事を読んで同時に「これはちょっとラブライブのハードルを上げたんじゃないかなぁ」って思った。むやみに。

この記事を読んで、果たして「ラブライブ」を見ようと思う人がどれくらいでたのだろうか。

考察はとても面白い。特に最近は設定に対する考察記事が(主観的ですが)少なくなっていることもあり、たとえ揚げ足を取るようなものであっても、新しい見方につながることも多く、やはり面白い。それを上手くプロレス的な流れに持っていくのも悪くない。
だけど、ちょっと立ち返って、第三者がこれらの記事を読んだとして、果たして本当に「ラブライブ」を「気軽に」見ようと思うだろうか。私はこれまでプロレス的な記事を書いてこなかった。何故かというと、プロレス的な記事を書こうとした瞬間、どうしても作品に対して真摯に向き合えなくなると思うからです。
プロレス的な記事を書こうと思うと、自分が持って行きたい「流れ」がまず存在し、その流れに対して作品から何かしらを読み取り、それで補強していくことが想像できる。つまり作品からスタートではなく、「如何にプロレス的に盛り上がるような書き方をするか」という点に注力されるのだと私は思っている。それって本当に作品に真摯に向き合っているといえるのだろうか。

私は、アニメ作品は「知られないこと」が最も残酷なことだと思っていて、これは「好きの反対は無関心」教から来ている。「つまらない」と言われている裏では、名前も知られていない作品が横たわっているという思想です。だから、disであろうが批判であろうが批評であろうが愛のある感想であろうがなんだろうが、人目に触れることは素晴らしいことだと思っています。
ただ、本当に、全てが全て、人目に触れることが正しいのかどうか分からなくなってきました。


プロレス的な記事って、読み手の「リテラシー」によって大きく捉えられ方が変わると思うのです。例えば今、ネット界隈ではやまもといちろうさんとイケダハヤト師のやり取りがそこそこにホットなわけなんですが、これをプロレスと取るのか取らないのかは、結構人によって違うと思うんです。「プロレス以前の問題です」などとプロレスと認識した上で更にプロレスのようなコメントを残す人もいるだろうし、まじめに捉える人も居るでしょう。まぁネットウォッチなんてそんなもんだ、って言われたら確かにそうなんですけども、人対人の場合なら、当事者どうしどうぞよろしく、などと放っておいても良いのかもしれませんが、そこにコンテンツが絡んでくると、ちょっと複雑だなと思うわけです。



そこでラブライブに戻るんですが、なんというか、正直言って一連の流れの記事は「悪くはない」と思うんです。あるアニメに対して掘り下げる、考察する、考える……というのはやっぱり価値があると思うし意味があると思います。
だけど、内容よりも如何に「プロレス的な部分を読み取るか」という思考に行ってしまう時点でもう駄目なのかもしれないとちょっと思った。記事全体の受け取り方の問題というか。
ある程度「リテラシー」の高い人であれば、前述したようにプロレスだと受け取った上で更に深く考える事ができるし実際そんな記事もたくさん見たし、私も書こうと思った。だけど、そうでない場合もある。そこの線引きは難しいけれど、私の場合は、今日、ラブライブ!の展開はμ’sの魅力をぎゅうぎゅうに詰め込むためのものっ! - 藤四郎のひつまぶしという記事を読んでちょっと駄目かもしれないと思ってしまった。


この記事を読んで、最初「ラブライブは何も考えずにただただ楽に見れるアニメ」という記事を書こうと思ったんです。「なんか最近やたらとラブライブの設定に対して理屈こねている記事が目立ちますが、それって重要であると同時に、本当に重要なんですかね」みたいな枕詞で、如何に可愛い女の子が居るだけで幸せかを散々書き散らした後、「でも設定を考えるっていうのも、最近あまり見られないので楽しいですね」などと締めようと考えていたのだ。

でもそれって、もうそんな形で書いたとして、意味が無いんじゃないかと思ってしまったんですよ。だからこうやって今、よく分からん記事を書いているのです。

終わりに

この記事自体がプロレスじゃないか、というツッコミもあるかもしれんですが、そういうつもりで書いていないことは一応付け加えておきます。まぁ捉えられ方の問題ですが…。
ちなみにどの記事も非常に面白いし、やはり「愛に溢れている」と私は感じるのですが、何となくちょっと、ちょっとだけ「違うかも」と思ったので何となく記事にしてみたのでした。なんか難しいなぁ。死にたい。