隠れてていいよ

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ライトノベル『魔法科高校の劣等生』を読んで、ネットの評判に流されてしまっていた自分を実感した話

本記事は、ライトノベル魔法科高校の劣等生』の第7巻「横浜騒乱編〈下〉」あたりまでのネタバレを含む可能性がありますのでご注意下さい。
なお横浜騒乱編とは、アニメ化された部分までとなっているのでアニメをご覧になった方はネタバレにはならないとは思います。



さて、タイトルが言いたいこと全部なのですが、ちょこっとだけこの作品について話してみたいと思います。扱うのはライトノベルであり、アニメではありませんのでその点ご承知おきください。

私が初めて魔法科高校の劣等生を名前を知ったのは、ネット上で通称「うどんコラ」が流行っていた時でした(知らない人はググってみてね)。ネットサーフィンしていると嫌でも目に入ってくるので、頭の片隅にあった作品でした。
コミカライズのコラが多かったですが、コラージュされるシーンというのは説明ゼリフが殆どであり、そしてその殆どを主人公とヒロインが真面目くさった顔で解説しているので、ギャグ漫画にしか見えませんでした。私はネット上でコラ画像しか見ていなかったので、この作品を、ギャグが多めの俺TUEEE学園モノだと思っておりました。

その後、この作品が「小説家になろう」発であったことを知ったこと、またネット上でコラ以外の話題つまり叩かれている話題を目にする機会が増えたこともあり、興味が出てきたので昨年12月ぐらいから合間を縫って原作を読んでいました。
参考:口コミだけで月間10億PV、ベストセラー続々 京都発の小説投稿サイト「小説家になろう」の歩み (1/4) - ITmedia ニュース


現在は第12巻「ダブルセブン編」を読み進めている最中ですが、ここまで読んでみて一言感想を述べよ言われたら「めっちゃ面白い」です。もう一言述べてもいいよと言われたら「全然ネタ作品じゃないじゃない」です。

先程少し触れましたが、本作品のネットでの評価というか「扱われ方」はとても偏っています。幾つもありますが、特に言われている偏った言説をまとめると

  • 主人公が俺TUEEEEするだけの中身の無い作品

でしょうか。
「お兄さまTUEEEEE」「さすおに*1」「お兄様が全部解決しちゃうんでしょ、はいはい」ぐらいなら、その作品の様式美的な扱いで済むのだとは思うのですが、悪意を持って「最近の小説は俺TUEEEEしか流行らないからな。魔法科高校の劣等生見てみ、典型的だから」みたいな言説も少なくない数を目にしました。ほかにも「劣等生ってまったく劣等生じゃないし。タイトルおかしいだろ」とか。こういった言葉を使って、まじめに批判しているのです。
また先ほど様式美と述べましたが、その様式美も行き過ぎるとその作品のイメージを形作るには充分な力を持ってしまいます。これは私の思い込みだったらいいですが、魔法科高校の劣等生の作品を読んだこと・見たことがない人にとって、この作品は「最近流行りの俺TUEEEEを体現した典型的な作品なんだろう。ネットでも俺TUEEEEしか書かれてないもんな」みたいな扱いになっているのではないでしょうか。
さらに作品批判だけにとどまらず、いわゆる作り手批判にも発展しているようです。
魔法科高校の劣等生に関する批判コメントの異常性 - ぐ〜たらオタクの似非考察日記
とはいえ、久しぶりにアンチスレを見に行ってみましたが、そこまで異常な叩かれ具合という感じではなかったです。アニメ放送も終わり、落ち着いているせいもあるかもしれませんが。2chアンチスレが活性化している方がアニメとしては盛り上がっている、なんてことも言われて久しいですが、とは言えアンチスレが伸びすぎるのもそんなに見ていて気持ちいいものではありませんね。関係無いですが、最近のアンチは他スレまで乗り込んできて定期的にコピペ貼るくらいのことは今でもやっているんでしょうか。

俺TUEEEって何やねん

私が思うに俺TUEEEとは、主人公が強いことに対してなされる説明・理屈に納得できない場合、を指すのではないかと。
例えば、主人公である司波達也は入学早々、生徒会副会長の服部と手合わせすることになります。魔法も満足に使えない二科生の烙印を押されている達也、対して二科生を見下しており「ウィード」という差別発言を行う典型的なやられ役ポジション(名誉のために言っておくと、現在は差別意識は無くなっている)という、シチュエーション的に美味しい対決。結果は、勝負開始僅か数秒で決することになります。達也の圧倒的な勝利によって。
この勝負の結果に対して「なんでや」と疑問、極端なところでは嫌悪感を抱くことは普通です。理由がまだ説明されていないのですから当然です。ですから書き手は、疑問・嫌悪感に対して説明を加える事で読者を安心させることになります。
達也は、試合開始とともに目にも留まらぬ早さで服部に接近し相手の魔法を不発に終わらせた上で、相手の頭を揺さぶるような魔法を放ち勝利します。
本作品の魔法の発動は、結構ややこしいです。起動式と呼ばれる魔法の設計図を展開し、それを自身の無意識下に存在する魔法演算領域に読み込み、座標や出力などの変数に目的とする数値を入力し、起動式に記述された手順のとおりにサイオン情報体すなわち魔法式を組み立てます。その魔法式を演算領域内から、無意識領域の最上層にある「ルート」に転送し、外部情報世界へ投射することにより「エイドス」(魔法式の投射対象)に干渉し、対象の情報を一時的に書き換えます。情報を書き換えるとは事象が書き換わるということです。
これらが、いわゆるCAD(術式補助演算機)を用いた魔法のシステムであると説明されます。これらは第1巻のpp104あたりで詳細な説明がありますので、興味がある方は参照してみてください。
以下は第1巻、pp104より引用。

サイオン情報体を構築する速さが魔法の処理能力であり、構築できる情報体の規模が魔法のキャパシティであり、魔法式がエイドスを書き換える強さが干渉力。現在、この三つを統合して魔法力と呼ばれている。

上記説明を見て感じた方もいらっしゃると思いますが、コンピュータの働きとよく似ていることが分かります。CADには起動式つまり「プログラムが」が格納されており、これは例えばHDD(副記憶装置)に置き換えられるでしょうか。これがメインメモリーにロードされます。メインメモリは魔法のキャパシティと言えるでしょう。実際のプログラム(魔法)の実行は、メインメモリからレジスタ(これはルートだろうか)へと命令が取り出され実行されることになります。一応この世界では、魔法演算領域はブラックボックスだという設定です(この設定も、後から生かされたりもします)。本作では、情報工学を例に魔法を説明するシーンが多々あります。

さて話を戻しますと、魔法の発動はすなわち対象の情報を書き換える必要があるので、座標をある程度は特定する必要があります(そこまで厳密ではなくても良い)。服部は、試合開始とともに魔法式を展開、その過程で達也に座標を合わせて発動しようとするのですが、達也は服部の視界から完全に消え去ってしまったので、魔法は不発に終わります。またなぜ達也が魔法の発動スピードよりも早く動けたかというと、達也が古式魔法「忍術」の師範から教えを請うており、魔法発動を上回る身体的技能を発揮できるような修行を達也がしていたからです。

と、僅か数ページの服部との勝負、一見「俺TUEEE」描写に対して、直接的なものとそうでないものも含めて、以上のような情報が私達読者には提示されています。

後は個人がどう受け取るかの問題ではあるのですが、少なくとも私はこれまで読んできた中で一見俺TUEEE描写に見える箇所で、作者が説明を怠ったようなところはほぼ無かったのではないかと思います。納得するかどうかは別として、ですよ。私は矛盾とかは感じませんでしたが。
また主人公が超人である一方で「劣っている」ということについても、読み進めていけば様々のことが明かされます。なぜ達也が「劣等生」なのか、また劣等生ながらも実戦ではなぜあれほどに強いのか。魔法に対して主人公がどういう主義・主張を持っているのか、またそれを持つに至った経緯は何か。妹がなぜあそこまで盲目的にブラコンなのか、また達也がなぜ深雪にのみ恋愛感情にも似た感情を持っているのか、他者に対する感情を持てないのか。なぜ魔法が軍事ばかりに多用されるのか、日本とUSNA(北アメリカ大陸合衆国)で魔法に対する価値観がなぜ違うのか。

私はまだアニメを見ていないので、アニメに対しては何も言えないのですが原作に関して俺TUEEEとか批判しているのを見ると理解できかねます。

とは言えアニメ化したらやばそうだという気配しかしない

ここまで書いたことは、全て原作について私が思ったことです。ライトノベルのアニメ化は得てして難しいもので、特に地の文で多用の説明がなされる本作品は、上手くストーリーを落とし込まないと

  • 説明が一切されず、描写だけが淡々と続く
  • 説明がだらだらされて、ストーリーが頭に入ってこない

などが予想されます。結果として、

  • ご都合主義
  • 俺TUEEEE

などの感想が生み出される可能性が高いと思われます。
ざっくりまとめサイト2chスレなどを眺める限りにおいては、「お兄さまTUEEEEE」「さすおに」に代表されるような文言が並ぶことからも、そういった構成になっていたのかもしれません(アニメをまだ見ていないので分かりませんが)。上述した設定なども文字という媒体でなら理解できても、映像化するとなると、そっくりそのまま頭には中々入ってこないでしょう。

同じように設定が重厚で知られている境界線上のホライゾンというライトノベルがありますが、この作品もアニメ化にあたっては様々の苦慮があったことを実際にアニメを見て感じていました(拙記事:『境界線上のホライゾン』から考える、原作付きアニメについての一考察)。
境界線上のホライゾンは細かな設定やストーリーを詳細に説明するよりは、キャラクターの躍動感・BGM・圧倒的な迫力ある画でそれを補っていたように思います。結果として、設定はよく分からなくても作品として楽しめるものになっていたと個人的には思います。それは、アニメを見てから原作を読んで改めて感じたことです。
魔法科高校の劣等生のアニメをこれから見ていこうかと思いますが、原作を読んでいる身として、比較しながら考察していけたらと思っています。


最後に

作品の面白さは、自分で決めようよ。自分が面白いと思ったものが面白いんでしょ。
それから「個人的にどう思うか」は勝手なんですけども、まとめサイトなどを始めとするまとめ屋さんたち、あなた達は、一方の意見のみを取り上げてネット世論をつくろうとするのはやめろ。思ったより若い世代は、ネットのまとめサイトに釣られてしまうから。影響力が少なくないことを自覚してくれ。
「◯◯っていう作品って面白いの? ネットでは□□って言われてるみたいやけど」って言われてる時の「ネット」って大体まとめサイトだからな! いいかげんにせーよ!



というわけで、年明け一発目の記事でした。本年もよろしくお願い致します。