隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

「アニメ“なんか”見てる場合じゃない」

「ゲーム“なんか”やってる場合じゃない」 - シロクマの屑籠

ところが、そうやってゲームと共に生き、ゲームに助けられてきたはずの私が、「残り少ない人生をゲームに費やしてホントにイイのか?」と考えはじめているのである。この文章のタイトルは『ゲーム“なんか”やってる場合じゃない』だが、このゲーム“なんか”という思いつき自体、なんだかおかしい。ゲームによって生かされていたような人間が、ゲーム“なんか”とは何事だ!
 俺はゲームが大好きだったはずだ。いや、今でもゲームが好きなはず……そうじゃなかったのか?

「ゲーム“なんか”やってる場合じゃない」 - シロクマの屑籠


社会人になって私はある問題と戦い続けています。アニメが殆ど見れなくなったこと、です。それまで当たり前に、沢山のアニメを見てきたのに、しんどくて辛くてアニメが見れなくなって、でも見るために、必死にもがきました。
環境が変わる、歳を重ねる……原因はいろいろあると思いますが、一度でもアニメから距離を置くのが本当に怖かったのです。離れるのは簡単だけど、戻るのはとても力がいるという強迫観念を持っていました。

この数年は、信じられないほどの環境変化がありました。仕事、プライベート含めてとにかく激動でした。結果としてオタク趣味のライフスタイルは激変しました。アニメは今は殆ど見れていません。

このアニメはなんとか見るようにしよう、1本ぐらいは追いかけてみよう……あんなにもアニメを愛していて、ほぼ全てのアニメを見ることが普通だったのに、「このアニメだけは」とか「1本ぐらいは」とかアニメに対して失礼なことを考えるようになってしまいました。

とはいえ、齢を重ねてきた結果として「今、やらなければならないこと」が多すぎる。
 一週間のうち、自分が好きにできる時間はそれほど多くない。仕事・家族・コミュニケーションの時間を削れば、現在の社会適応はたちまち崩壊するだろう。人間関係も仕事も、時間やお金や体力を割いて“手入れ”をしなければ、簡単に腐ってしまうことを私は知っている。現状を維持するだけでも相当なリソースがかかる。

「ゲーム“なんか”やってる場合じゃない」 - シロクマの屑籠

生きることはほんとうに辛い。魂を削って仕事をしていると特に最近は感じる。魂を削るなら自分の好きなことに削りたいと心の底では思っている。
ワナビーという言葉をご存知ですか。want to beを略した俗語、ネットスラングで、何かに憧れてなりたがっている人を揶揄して使われる言葉です。なぜワナビーという言葉が侮蔑的に使われるのかというと、その対象の多くが行動を伴っていないからだと私は思っています。端的に言えば、口だけ、ということ。
もう笑えない。自分はワナビーであるかもしれないと思うようになってしまった。昔は、とにかく全力で自分の好きなことに時間をかけ続けていたから、ワナビーのワの字も出なかった。誰がどう思おうが、自分は全力でやっていた。今はどうか。妥協していないか。もう諦めていないか。

それでもコンテンツには感謝している

私は例えワナビーなどと嘲笑されようとも、アニメ・コンテンツに対する思いだけは持ち続けます。コンテンツに対する恩返しはコンテンツしかありえません。そう思って今、日々を生きています。

毎日がしんどい。体力もどんどん減っていく。やる気がでない。寝たい。しんどい。会社行きたくない。でも生きねばならない。これは紛れもない事実。そして同時に、コンテンツに対して恩返しもしたい。これも紛れもない事実。

じゃあどうするか。生きるしかない。生きねば。まだ風が吹いています。


「まだ風は吹いているか、日本の少年よ」
「はい、大風が吹いています」
「では生きねばならん」