隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

秒速5センチメートルを久々に見て−たられば考察の悲しさ−

ここ最近忙しく、また明日から忙しい日々に戻るのですが、なぜか唐突に秒速5センチメートルが見たくなり、久々にPS3など起動して、最初から通して見ていました。twitterで感情をひたすらに吐露していたのですが、それでも記事にしておこうと思ったので、記事にします。全体を通して、なんでなんだろう、という思いを綴るのみで、考察とかはほとんどありません。

今回は、今までになかった視点、というか今まであまり考えたくなかった視点からひたすらに考えながら見ていたら、コスモナウト終了時に涙が出そうになりました。3話終了後、クレジットでピアノの音楽が流れるシーンでも、胸が抉られて泣きそうになりました。「好き」という一言をどこかで言えていたら。もし手紙が。もしメールが。もし…。こんなに虚しい考察はない。もし〜だったら。たられば考察。この考察ほど虚しい、悲しい、胸がえぐられるものはない。

結局、物語は完結しているのに。たらればで悲しくなる。そしてその答えは「好き」という一言に集約される。色々あった。お互いがずっと文通を続けられていたら。宛先があるメールを送信していたら。電車が遅れて、そのまま主人公が帰っていたら、アカリが帰っていたら。雪が振らなかったら。主人公が手紙を無くさなければ。キスしたときに、瞬間に決意出来ていたら。守るために強くなる、ではなくて、「僕が守る」と言えていたら。アカリが手紙を毎日読み返していたら。電車が通らなかったら。そして、「好き」と言えていたら。

もし、主人公が手紙をなくしていなければ、もっと手紙に対して執着したのではないだろうか。毎日読み返して、さらにアカリの事を思うことで、さらに行動的になっていたのではないか。そうすると、二人は出会えていたのではないか。



たったその一言、「好き」という言葉を伝えられていたら、歯車は全く違う現象を起こしていたはずだ。歯車は別の歯車と噛み合ったかもしれない。歯車は今噛み合っている歯車とさらに噛みあったかもしれない。スピードが変わったかもしれない。減速したかもしれない、スピードが上がったかもしれない。もしかしたら、歯車自体がぶっ壊されたかもしれない。どうして、その一言が言えなかったのか。


この作品を素直に受け入れられたらどんなに楽だろうか。何度見ても考えさせられるし、胸が抉られる。もし見たことがない人は、ぜひ一度見てみてください。そして、感情を吐露してみてください。秒速5センチメートルは良作ではなくて名作。間違いなく名作。