隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

作画崩壊アニメがネタアニメへと昇華された瞬間

最近、不合理だからすべてがうまくいくという本を読みました。行動経済学の第一人者、ダン・アリエリーさんという方が、人間の様々な不合理さ、気持ちの持ちよう等々を、面白おかしいエピソードや実験を交えて書かれています。


そんな中、「快楽順応」に関してある程度のページが割かれています。直ぐにでも理解できそうな箇所を本から引用いたします。(著者:ダン・アリエリー,訳者:櫻井裕子,“不合理だからすべてがうまくいく”,pp228)

新しい家に引っ越したてのころは、磨き上げた堅木張りの床に感激したり、けばけばしい黄緑色の食器棚に気がめいったりするかもしれない。でも二、三週間もすれば、こういう要素は背景にとけこんで、目につかなくなる。二、三ヶ月もたてば棚の色にそれほどイライラしなくなる代わりに、見栄えのする床にもあまり感激しなくなる。こんなふうに感情が平坦化するプロセス、つまり当初の肯定的、否定的な受けとめ方が薄れていくプロセスを、「快楽順応」と呼ぶ。

本では、この快楽順応について様々な実験を通して検証しています。

さて、この快楽順応とは直接関係ないかもしれませんが、この言葉を見ていてふと考えたことがあります。それは私たちがアニメを見て感じる「何か」(感想)というのは、果たして一貫性を保証しなければならないのか、ということです。例えばあるアニメの評価を「最悪だ!」と言っていた人が、その後「面白い」と言う事であるとか。

主張というのは、時間や環境、その時の気の持ちよう、得た知識等々で変わっていくものだと、私は思います。もちろん、それでも変わらないものもあると思います。

作画がひどいアニメがあるとする

例えば、作画がひどいアニメがあったとします。それはもう、汚さに気を取られ話の内容がどうでも良くなるレベルだとします。ある人は、当初「こんな作品は、最低だ。いったい作り手側は何を考えているんだ!」という旨の感想を述べており、ひたすらに糾弾していました。作画のひどさは2話、3話と進んでも一向に良くなる気配がなく、むしろ悪くなっているようにも感じられました。
しかし当初糾弾していた人は、5話くらいまで視聴したとき、こう思いました。「むしろ、作画崩壊しているのが面白い」。その人は、1話からそのアニメを見直しました。すると今まで見えてこなかった部分が見えてきました。ひどく罵っていた時に比べ、数倍も数十倍もそのアニメが面白いと感じたのです。そのアニメに対するスタンスが変わるだけで、作画崩壊アニメがネタアニメへと昇華された瞬間でした。

まなびストレートの、ももの立ち位置

まなびストレートという、私にとっては名作のアニメがあります。ヒロインは5人で、その中に報道部の小鳥桃葉(愛称はもも)というキャラクターがいます。このキャラは、他の4人のヒロインに比べて、画面に映る映らないで言えば扱いが悪いです。
一見して扱いが悪く見えたもので、当時私は、感想を書くたびに「ももの扱いが悪い。ひどすぎる」と書きまくりました。しかしある時、本当にそうなのか?という疑問が出てきました。ももの出番があまりにも少ないので、なにか理由を見出そうとしていたのだと思います。そこで1話から執筆時の最新話までを、ももに着目して視聴しなおしました(参考:まなびストレートでのももの活躍)。するとまぁ、180度見方が変わり、なんだ、出番自体は少ないけれども、ももの立ち位置というのは、とても重要なんだ、という結論に至りました。まなびストレートが、納得がいかない作品から名作に変わった瞬間でした。

まとめ

昨今1クールのアニメが増えてきて、ゆっくりゆっくり考察している暇が無かったりもします。その中で、あるアニメに対してあまりにも盲目的な見方や決めつけをしてしまうと、そのアニメの本質に(良くも悪くも)気づかない可能性があると思います。もしかしたら、名作は駄作かもしれませんし、駄作は名作かもしれません。難しい問題だと思います。

さてこんな主張をしている私でも、放送当時から少なくとも現在までは変わらない主張があります。それはtrue tearsという作品の、比呂美というキャラが好きになれないことです。変わるものもあれば、変わらないものもありますよね、と。