隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

ネタアニメだからといって、考えることをやめるのは正解ではない

一挙放送を終えて現在は週に一度のレギュラー放送をしている、アニメもしドラ
「野球してる方が面白い」「このアニメがマネジメントされるべき」といったネタなのか辛口なのか分からない評価をたくさん見てきました。
私の中では、もしドラネタアニメでした。ネタアニメとは、「作り手は真剣に作っているんだけれども、見てる側としては笑えてしまう」作品と定義しています。


なおもしドラに関しては以下のような記事を書きました。よろしければご覧下さい。

アニメも始まる「もしドラ」を、今更ながら読んで感じたこと
原作「もしドラ」の書評、または感想。ライトノベルっぽさについて考えています。
もしドラ放送開始。もっとスタッフ愛を感じさせてくれ!
1話を見た感想。原作と比較し、考察しています。
野球回のあるアニメは名作!
もしドラを下地に、○○アニメは名作!という都市伝説について書いています。


さて、ネタアニメにおいてはネタ的な意味以外で「アニメの良いとこ探し」をしなくなる傾向が私にはあります。どういうことかというと、「ここの、この演出が良かった」「このシーンは、こういうことを暗示している」などと、ある種の真面目な議論をしなくなっていくということです(ネタ的な議論はします)。


そんな中、もしドラネタアニメではない視点から考察されている記事を見つけ非常に感銘を受けました。それが以下の記事です。


「もしドラ」の橋頭堡は何処か(subculic)


以下ではこの記事に対するコメント及び、ネタアニメの楽しみ方についての考察をしています。

「川」という表現に注目されたこと、そして感動されたこと

上の記事では、夕紀の感動を表現する方法として「川」が使われていることに着目されています。

みなみが野球嫌いになってしまった原因を作った少女野球時代、みなみがサヨナラヒットを打つシーンに夕紀は「感動」します。このシーンではキラキラ光る「川」のカットが使われるのですが、実は「川」のカットが、色合い・表現方法を変えて物語の重要なシーンでことごとく使われていると記事では主張されています。

同じ素材を使いまわしているだけだ、と割り切ってしまえば終わりなのですが、ほんの少し感傷的になってみると、「川の流れがいつも穏やかなまま」というのは、夕紀の心情が暴れたりもせず、鉄砲水のように押し寄せたりもせず、あのみなみがサヨナラヒットを打った日と何ひとつ変わっていないんだよと告げている。夕紀が「死」を受け入れ、態度に出さずみなみに接していた理由もきっとそうなのだろう、と。

「もしドラ」の橋頭堡は何処か - subculic


夕紀が亡くなったと知らずに病院へ向かうシーンや夕紀の死を知って自暴自棄になるシーン、ここでも同一のカットが挿入されます。これはもう偶然ではありません。作り手が意図的にした演出なのです。


では果たして、私はその演出に気づけたのかどうか? 答えはノーです。なぜか? 冒頭でも述べましたが、もしドラを「真剣に」見ていなかったからです。
この考察記事を読んで最もショックだったこと、それは自分が考察することを放棄していたことに気づいたことです。ネタアニメだから考察しようとしなかった、というのは言い訳でしかありません。こんなにも感動を主張していたのに、残念ながら、本放送中はそれに気づくことができませんでした。


ネタアニメだからといって考えることを放棄すると、気づけたことに気づけない可能性があります。その気づきがあれば、そのアニメ作品に対して別の評価ができたかもしれません。
もちろんネタアニメ的に楽しみ続けることを間違いだと言っていません。ただし、正解でないこともあるということを今回の件で強く感じました。


上の記事では、もしドラを以下のように締めくくっています。

粗も目立ちますが、人間ドラマのパートはみなみと夕紀の友情に徹した分、観やすかった。裏を返せば、陳腐でインスタントな感動作と言ってしまえるかもしれませんが、泣かせるには泣かせるための準備と過程、描写が必要ですねやっぱり。その点はしっかり抑えてあり、感情の入りやすさはいいのですが、甲子園にいくという目標の大きさに足る準備が足りなかったのか、高校野球のリアリティに目を配るとしょんぼりしてしまう。両極端に尖っているのが勿体無いと感じるアニメ、それが『もしドラ』なのかなぁ、と。

「もしドラ」の橋頭堡は何処か - subculic


もしドラネタアニメと捉え、思考を止めてしまった自分には絶対に書くことができない感想だと感じました。

キーとなる場所や物

アニメにおいて、ある特定の「場所」や「物」が何かを意味していることが多々あります。
例えば私が傾倒した作品true tearsでは、「海岸」や「ニワトリ」がキーとなっていたでしょう。詳しくは割愛しますが、例えばニワトリは「ティッシュ箱のニワトリ」「雷轟丸」「地べた」「眞一郎と乃絵の接点」など多くの点で意味を持っていましたし、「海岸」で繰り広げられるシーンは物語上で重要な意味を持ち、登場キャラクターの心情が吐露されるシーンが多かったように思います。

これが偶然なのかというと、もちろんそうではないでしょう。アニメを見る際に「何か」に注目して考察を深めることは意味があるのです。もちろんその「何か」が分かりやすく提示されていることもあれば、深く考察しないと分からないこともあります。

以下、true tearsに関連する記事を2つ挙げておきます。

まとめ

ネタアニメだと決めつけた時点で、ある種の思考停止状態に陥ることがあります。しかしグッと我慢してじっくりと作品に向きあうことで、また別の視点が生まれることを今回のもしドラから強く学びました。


なお本記事では「ネタアニメ」が思考停止しやすいといいましたが、人によって条件は様々でしょう。アニメの評価というのは、かくも難しい。