本記事は、『まなびストレート!』オールナイトイベントに参加して、見返して感じたことを、脈絡なくつらつらと書きます。結論とか流れはあまりありません。
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なおネタバレを含みますので、ご注意下さい。
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さて、私は『まなびストレート!』のオールナイトが開催される前日、偶然にも「青春」とは何なのかということについてモヤモヤしていました。あまりにモヤモヤしていて、とりあえず何か学園モノのギャルゲとかエロゲをやって、「青春」についてアウトプットしないと死ぬかもしれないと思ったぐらいでした。
そんな中、オールナイトイベントに参加して、まなびを見ながら、あぁ青春とはなんぞやと、特に6話以降ずっと考えていました。
青春とは何なのか
ハッキリ言って分からない。だけど、今私が感じるのは、少なくとも青春は「個人」ではできないということなのです。そしてそれは自分が過去を振り返ってみて、大勢で何かをなしたことがない、熱量を持って取り組んだことがないということに帰結してしまうのです。学園祭のテーマ「トモダチからナカマへ」は、まさしく、そういうことで、皆で何かを成すということを指しています。
打算的でなく、目の前のことにナカマと共に全力で取り組み、汗をかいて、つらい思いをして、でもやり遂げる……。そんなことしたことねーよ。ずっと自分ありきで生きてきたオタクですよ。
第10話、「集う仲間たち」において、その「ナカマ」、「皆で何かを成し遂げる」を圧倒的に感じさせるシーンがあります。それは、生徒会室の移転時のことです。
埃まみれで、散らかり放題で、5人では到底時間が足りない。そんな中、まなびが切れる。
芽生「みんなでやる学園祭は楽しいに決まっている、か」
まなび「そんなの明々ホクホクです。誰にだって分かることじゃん」
芽生「そうかな。以前の私は楽しいに決まっているなんて言われても、理解できなかったと思う。今は、分かる。それは私がナカマと何かをすることの楽しさを知ったから。「トモダチからナカマへ」、最高のキャッチコピーだと思ったけど、その意味が分かるのは私たちだけで、みんなにまでは届いていなかったのかもしれないわね」
「まなびストレート!」第10話「集う仲間たち」より、まなびと芽生の会話
芽生の本音が語られる……もう誰も助けてくれないに違いない……そんな暗い空気の中に演劇部がやってきてくれる。演劇部がニヤッと笑って「何をしたらいい?」という感じを見せる。そこで視聴者である私達は「あ、演劇部の人たちも、以前、最初の生徒会室のリフォームを、つまりナカマでやり遂げる経験をしているんだ」という想いに至り、カタルシスを感じるという一連のシーン。
分かるでしょうか。こうやって皆で成し遂げるという経験があるから人は集まる。または、その経験が「とんでもなく楽しいことだ」ということを伝えることによって、どんどんと人が集まる。次々と、人が集まってくる。集ってくる。第10話のサブタイトル「集う仲間たち」に相応しい内容となっている。
しかしここには、あまりにも辛い現実が横たわっているとも思う。それは、過去に経験できたか、もしくはまだ経験できる、ということなのである。桜園長やしもじーは、昔「皆で成し遂げる」ことをやった。まなびたちは現在進行形で。演劇部や家庭科研究部も経験した。それ以外の生徒も、参加することでその「成し遂げること」を経験できる。
しかし、翻って自分はどうなのか。いや、学生時代にそういった「皆で成し遂げること」に対して、熱を持って接しなかった人は、どう受け止めればいいのか。
本当に、まなびたちは眩しい。すごい、すごい。今回まなびを見ながら、「最高に楽しい」と思っている頭の隅っこのほうで、少しだけ「辛い」と感じていました。
聖桜学園桜園長「確かに、今年と去年までの学園祭の何が違うのかと言われれば、そんなに変わっているわけではありません。でもやはり、今年の学園祭は特別だと思うんです。なぜなら、生徒たちが、自分自身で勝ち取った聖桜学園最後の学園祭だから」
「まなびストレート!」第11話「わたしにもみえるよ」より
青春は多分、どこか一部を切り取って「青春」というわけじゃないでしょう。学生は必ずしも青春していたわけではないだろうし、「人はいつだって青春を感じられる」、みたいな言葉もある。だけど、やっぱりそうは言っても、愛光学園の理事長の言葉は本当に重いし、そしてかなり事実を含んでいると思うんです。
ただ純粋に、一生懸命になれたり反抗したり夢中になれるのは、学生の時だけ、なのではないかしら
みかんがアメリカ行きを決めた時、以下の様なセリフを言う。
「今までのことを思い出せば信じられる…だから、待ってて。キラキラをワクワク、いっぱい見つけて返ってくるからね」
みかんだけではない。彼女たちは、その「青春」を過ごしたからこそ、新しい一歩を踏み出せているのではないか。空港で、皆で右腕を掲げたポーズは、まさしくやり遂げた時にするポーズなのである。それを思い出せば、私たちはやっていける、ということなのではないか。
では、振り返れない人はどうすればいいのか。そういう思考は「甘い」のだろうか。何か「青春」に触れてしまった時、自分の中でその「青春」として依拠するものがないというのは、やはりとんでもなく、辛いことなのではないか。そしてそれはもう、取り戻せないことなのだろうか。
ただ純粋に、一生懸命になれたり反抗したり夢中になれるのは、学生の時だけ、なのではないかしら
終わりに
彼女たちは素晴らしい経験をした。アニメではそれが描かれる。それを見て私たちはカタルシスを感じることが出来る。
しかし同時に私は、少し、辛くなってしまった。なぜだろう、社会人になって打算的になっているからだろうか。もう学生に戻れないからだろうか。学生時代に、青春を送らなかったからだろうか。