隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

『魔法少女まどか☆マギカ』の持つエネルギー ― 僕たちはハイコンテキストな空気の中でモノを楽しんでいる ―

今日は風呂場で、防水仕様のXperia Zでニコニコ動画を見ていました。見ていたのは、ニコニコでは割と有名なネタを使ったMAD動画で、好き嫌いは別れるタイプのMADだけれども、私はとても好きで、コメントを含めていつ見ても笑わせてもらっています。今日も「くふふ」と腹の底から妙な笑いが出てきました。

お風呂に浸かりながら考えていたのは、私達が作品を楽しんでいるときは、多分にコンテキストがついてまわる、ということでした。ニコニコ動画の、さらにMAD動画までになると相当なコンテキストが、もっと単純化して言えば内輪ネタの盛り上がりになっています。ある人が見れば「何が面白いんだ」、下手をすると「不謹慎だ」と言われそうな内容であっても、それが笑いや感動に繋がったりすることがままあります。
もちろん私だって最初からその「内輪」の人であったわけではありません。だんだんと慣れ親しんでいったというか、自然と楽しめるようになっていたというのが正直なところです。


(ここから本当に少しだけまどマギ劇場版のネタバレがありますのでご注意ください)



「劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語」を3週間前くらいに見ました。まどマギについて四六時中考えているわけではなく、また死ぬほどは思い入れがある作品ではないため久々のまどマギだったのですが、映像を見ながら感じていたのは「あぁ、楽しいなぁ」とうことでした。
佐倉杏子美樹さやかが一緒に笑顔で戦っている、マミさんが皆と楽しそうにしている……これらはアニメ版においてはありえなかった映像で、しかしそういうIFの世界もあっただろうと誰もが想像していたことで。だからこそ二次創作は盛り上がり、沢山の良質なまどマギ本が溢れた。そしてそれが、公式で、映像として作られている、映画館で、荘厳な音楽とともに杏子とさやかが戦っている様子を見ながら私は「あぁ、素敵だ」と心の声でつぶやいていました。

なぜ私が「素敵だ」と思えたかといえばそれはまどマギという作品と少なからず付き合ってきたからにほかなりません。「ご褒美」という言葉で表されることもあるでしょうか。
ただそのように「ご褒美」だと感じている一方で、120分という短くない時間を過ごしている中で私は凄く「じれったい」という想いを抱いてしまいました。「見滝原は偽物かもしれない」という、ストーリーが動き出し始める部分までが「長い」と思いました。もっと厳密に感情を言語化するならば「早く話が進んでほしい」という想いでいっぱいでした。ようやく話が核心に迫り、次々と話が展開して、ラストに至るまではゾクゾクしっぱなしだったのですが、そこまでは結構辛かったというのが本音でした。ご褒美なのに辛い。辛いけどご褒美。


まどマギ劇場版の感想はいくつも読みましたが、私の感覚では以下のようにカテゴライズされていました。

  • 深い考察記事
  • 深い愛にあふれた感想記事(考察含み)
  • 映画の内容に対してはほどほどで、映画の作りそのものに対する部分が占める記事

その中で、上2つと下1つの記事には明確に違いがって、上述したような「まどマギのコンテキスト」を前提とした論が展開されているか、されていないか、でした。もちろん強引にカテゴライズしているわけなので、上2つにおいても敢えて「冗長さ」に触れたものもありましたが、そこは重要なところではないように私には感じました。

「劇場版まどマギが冗長であった」という論を展開する記事に対して、全体的な風あたりは「それはまどマギを理解していないからだ」「これはまどマギファンに対するご褒美なんですよ」という返しをしているのが散見されました。もちろん全てではありません。


さて、私は常日頃から「アニメはアニメで楽しめるべき」と主張しています。これはつまり「アニメは原作ありき」という糞食らえな論に対するアンチテーゼ的主張なわけなんですが、果たして私達は常にどちらかの主張に立ち続けることはできるのでしょうか。
あるときは「それはご褒美なんだよ」と主張し、あるときは「作品はその作品そのもので楽しめるべき」と主張する。それは別におかしなことではないように思うのですけれども、しかし都合のいい時に、都合のいい側に立ち、ポジショントークを繰り返しているだけなのではないでしょうか。ダブルスタンダードに気づいいていない、もしくは気づいていながらも、自分が擁護したい・守りたいものがあるときには「それはそういうものなんですよ」と言い、関係がないものには鬼の首を取ったように「作品は作品!!!」と声高に叫ぶ。

まどマギは、単なる深夜アニメのコアな作品では既になくなっています。一部のオタクだけしか知らない作品ではなくなっています。言うならば、すごく力を持っている作品です。その作品に対して、「冗長だ」という感想を残した時、私達は鬼の首を取ったように「それは分かっていないからだ」と潰しにかかっていないだろうか。思うに、コンテキストを理解しているかしていないかで、感想が変わるのは当然のことで当たり前のことのはずなのに、まどマギの持つ圧倒的な力を盾にして、自分が正しいと思っていることを他人に押し付けてはいないだろうか。



私は、オリジナルアニメが大好きです。そして、オリジナルアニメ放映中に行われる、数限りない考察が大好きです。なぜかと言うと、絶対に正解などわからないからです。後から核心に近づいていたことが分かったとしても、放送当時は正解なんてわからないからなんです。だから、いろんな人が、なんの気負いもなく、どんどんいろんな意見を出す。それを読んで、誰かがまた意見を出す。それを毎週繰り返す……なんと楽しいことか。
もちろん答え合わせも楽しいです。高度なコンテキストの中で交わされる、深い洞察と考察も大好物です。「そういう解釈もあったか」と、これまで考えたこともない切り口で紡がれる文章に出会った時は本当に驚き、刺激されます。


私達は、何もない荒野からスタートして、いつの間にかハイコンテキストな環境に当たり前のように身をおいています。いつの間にか適応していることに、私達は中々気づきにくいです。でも、時々振り返らないと、意味のないいさかいや不毛な議論を巻き起こす元にもなると思います。
ネットではハイコンテキストであることが持ち上げられる傾向にありますが、時には立ち止まって、今自分がいる世界がどこにあるのか、を考えてみることも必要だと思います。



はて、何が言いたかった記事だったんでしょうか。アイカツは神アニメだということが言いたかったのかな?
(「アイカツは神アニメ」という表現自体も既にハイコンテキストだなと思いながら筆を置きます)