上記記事が目に入りまして読んだのですが、こういう視点は意識して持たないと私は本当に考えないんだなという感想が最初にありました。
これまでアニメに対して、そういう見方、つまりもっと当たり前のように障害者が出てくるようになってもいいのではないか、ということを考えたことがありませんでした。
当たり前のようにとは、理由なくということです。
元記事の筆者がおっしゃるように、障害を持つキャラクターには何かしらの「理由」が付随していることが多いため、説明ができてしまう。
少なくともキャラクター紹介に載るレベルのキャラクターが障害を持っていて且つその理由に特に意味がなく当たり前のようにストーリーに関わってくる作品を、少なくとも私は挙げることができませんでした。アニメ作品かどうかにかかわらず、です。何か絶対に理由があったよなーって。
個人的に思うこととしては、キャラクターに意味のない記号を付けることってあるんだろうかということなんですよね。キャラクターというのは意味を持って生まれてくるものだと思ってます。
そして少なくとも私は、特別な何かを求めたくなってしまいます。記号がついているのだから。キャラクターの一挙手一投足には意味があると思ってます。キャラクターが24時間365日描かれるのならまだしも、そんなことはないので、私達はキャラクターの何たるかを表現されているものの中から読み取りきらなければならない。
「病気」とか「障害」っていうのは圧倒的な記号力を持っていると思っていて、流石にそこを無視しろというのは中々できないと思うんですよね。もちろん逆説的に、理由なくやる発想は全然あっていいと思っているものの。
キャラクターを知ろうとした時に、障害を持っているということを私は中々無視できないので「理由がない」と思わせるためには相当な工夫が必要な気はします。
以上が、現時点において自分の思っていることです。
以下はいろいろ思ったことを書いているので、お時間のある時に是非。
自分が触れてきた作品を考えてみる
私が深く関わったことがないだけで、理由なく障害を持つキャラクターが登場する作品はあるはず、ですよね。
実際、上記記事のコメントにて、例えば id:hokke-ookami さんが以下のような作品例を挙げていらっしゃいます。
>そんな普通の障害者が、何の理由もなくアニメに登場してもいいのではないか。
ややマイナーですが、映画『WXIII 機動警察パトレイバー』くらいですかね。
主人公コンビの先輩刑事側が松葉杖をついているが、その原因が最後まで語られない。
仕事に復帰しているほど治癒しかけているので、がんばれば走るくらいはできるという微妙さも珍しい。
ここからは、障害者という観点で私がこれまで触れてきた作品(アニメに限らず)をいくつか挙げながら考えてみます。繰り返しになるのですが、私はあまり作品を障害という観点で見てこなかったので、障害者探しのようなことをすることに対してあまり積極的にはなれませんでした。もしかしたらこれも、偏見なのかもしれませんが。
なお、挙げる作品についてストーリーにはそこまで深く立ち入らないようにするつもりですが、少なくともどのキャラクターがどういった障害を持っているのか、というような情報は記載されますので絶対にネタバレを避けたい方はご注意ください。
北斗の拳
最初に思いついたのは、北斗の拳でした。初めて漫画を読んだのは小学生の時だったのですが、正直、障害については意識していなかったと思います。代表的なキャラクターとしては、被爆しているトキ、盲目のシュウ、片足を失っているファルコなどでしょうか。これらキャラクターには、それぞれ理由が描かれています。その障害が、キャラクター及びストーリーを引き立てる装置になっています。なので、理由なくとは真反対のキャラクターたちとなります。
この3人の中だと、シュウのエピソードが好きですね。登場から退場まで、ストーリー含めて全部好きです。
HUNTER×HUNTER
キメラアント編に登場するコムギというキャラクターは、盲目でした。コムギの盲目の理由は、作中で明確に描かれていなかった思います(確か)。盲目そのもの対する掘り下げは比較的少なかったように思うものの、コムギというキャラクターを形作っている大きな要素であることは間違いなく、本キャラクターも理由なくとは真反対と思います。
クビキリサイクル
西尾維新さんのデビュー作であるクビキリサイクルは、副題に「青色サヴァンと戯言遣い」と付いているように、サヴァン症候群の玖渚友(くなぎさ とも)がヒロインとして登場します。サヴァン症候群について実はあまり知らなかったのでググる程度に調べてみましたが、自閉症スペクトラム障害の周辺症状として現れる、という。障害であると考えて、問題はなさそうである。
サヴァン症候群は、Wikipediaを引用すると知的障害や発達障害などのある者のうち、ごく特定の分野に限って優れた能力を発揮する者の症状を指す
ということで、言わずもがな理由ありというか、玖渚友というキャラクターを形作るそのものですね。
しかし、クビキリサイクルを始めとする戯言シリーズを読んでいて、私は玖渚友に対して「障害者である」という意識をしていなかったように思います。上手く言語化できないのですが、記号的なものとして読み取りすぎていたのかもしれないなとも思うし、「天才的な能力」の方に引っ張られすぎていたのかもしれない(つまり、障害があることよりも、能力を持っていることに対して引っ張られていた)。
さくら荘のペットな彼女
本作について私はアニメを途中から見なくなったのと、原作も買っておいて積んでいる状態のため正確に描写があったかどうかはわかりかねますという前置きはさせていただきますが、ヒロインである椎名ましろは相当に変わり者でした。介護アニメなどと揶揄される程度には。サヴァン症候群なのではないか、と言われても否定出来ないぐらいの描写は多かったように思います(あくまで個人的な感覚です)。
公式(http://sakurasou.dengeki.com)のあらすじとして「なんと彼女は外に出れば必ず道に迷い、部屋はめちゃくちゃ、ぱんつすら自分で選べないし、穿けない、生活破綻少女だったのだ!」と紹介されるように、一般常識とはかけ離れた存在として描かれます。コンビニで、まだ会計をしていないバームクーヘンをいきなり食べだすシーンは相当印象に残っています。しかし、そんな彼女は天才画家であるという設定があります。
人によって捉え方はいろいろあると思います。日常生活がまともに成り立たないけれども特定の分野にて圧倒的な能力があるという設定は、典型的な天才記号だと言えなくもありません。繰り返しになりますが、私は椎名ましろに対して障害を持っているというふうには考えていませんでしたが、そういうふうに捉えられることもあるのだろうと思います。
bermerkids.hatenablog.com
絶対絶望少女
『絶対絶望少女 ダンガンロンパ Another Episode』というゲームに登場するモナカという少女は、車椅子生活を余儀なくされているキャラクターでした。書いておいてあれなのですが、プレイしたのが約4年前で、本編にて車椅子の理由が明確に描かれていたかどうか、また描かれていた場合それが強くストーリーに関与していたかどうかを思い出せません。次プレイする機会があれば、メモしておきたいと思います。
thun2.hatenablog.jp
フォレスト・ガンプ/一期一会
映画作品を考えた時に最初に出たのが、本作品でした。この作品は小学校から中学生くらいまでの間に飽きるほど見返していたとても好きな作品なのですが、主人公のことを明確に障害を持っていると感じていたかといえば……正直よく覚えていないんです。多分、子供ながらには「ちょっとおかしい子」なんだろうなって思っていたと思うのですが、「障害」という言葉と直接結びつけていたかどうかの明確な記憶が無い。急に見返したくなりました。
映画の中の障害者像
おおきく振りかぶって
よくよく思い出してみると、主人公である三橋は少し吃音症だった気がします。もちろん、おどおどしているとか気弱であるという記号表現の可能性もあります。
実際、阿部くんは上手く話せないことそのものよりも、思ったことをちゃんと言ってくれないということに対してイライラしていたように思います。
吃音症は、比較的「理由なく」存在できそうなのかなと思う一方で、原因の一つとしてあげられる以下のような状態と結びつくことも多いのではと思ったりもします。
3 学習説
吃音は「学習された行動」であるという説である。吃音は、聞き手と話し手の間に生じる緊張や葛藤や不安などと、ことばの獲得期の非流暢な話し方が結び合って身についていくものと考える。話し手が自分の吃音を意識するにつれ、話すことを恐れたり、話さなければならない場面を避けたりするようになる。話すことに対するむつかしさや恥ずかしさを予期する気持ちが重なり合って、それがさらに吃症状をひどくしていくというのである。
日本吃音臨床研究会:どもり:悩み:改善|知っておきたい吃音知識_001_02
つまり、おどおどしていたり気弱だったり自身が持てないなどの性格と強く結びつくことで「理由あり」と感じてしまいがちになるということです。
その他
- 喰霊-零- の神宮寺菖蒲
- 魔法少女リリカルなのはの八神はやて
- DARKER THAN BLACK -黒の契約者- の銀
終わりに
いろいろ考えては見たものの、仮に作り手側が障害を持つキャラクターを出して、それを意識させないような描写をしたとしてそこに意味を感じないと思うことができるかは正直分からないです。理由は冒頭にも述べたように、キャラクターというのは、全て意味を持って生まれてくるものだと思っているからです。
ここ数日間この記事を書きながらいろいろ考えていたのですが、考えはすっきりとまとまりませんでした。もう少し考えたいのですが時間が足りないので、本記事はここまでにしたいと思います。
最後にtwitterでフォローさせていただいている方のツイートを引用させてもらおうと思います。
「障碍者が、当たり前の存在として登場するアニメ」の問いは、自分もよく考えるなぁ。
— animei2710 (@animei2710) 2018年9月23日
大衆演芸がマジョリティの価値観中心になるのは自然なことではあるのだけれども、アニメ制作が「クリエイター」の仕事であるなら、もっと柔軟に貪欲にアニメの世界を広げるのに、そういう着想があって良いと思う。
これを、「アニメの世界を広げるための手段」として解するのが適当であるかどうか、という点も思想的には問題になってくるけれども。
— animei2710 (@animei2710) 2018年9月23日
「テクスト的な意味」が希薄な障碍者を主要登場人物に置く機会を増やすとしたら、『徒然チルドレン』『きんいろモザイク』のように、社会的立場という観点でいえば均質的な登場人物で構成される作品から始めるのが、ハードルは低いという気がする。
— animei2710 (@animei2710) 2018年9月23日
わざわざ「テクスト的な意味」と断る必要があるのが、面倒だな。
— animei2710 (@animei2710) 2018年9月23日
(現実的には、少なくとも現在共有されている価値観のもとでは、パフォーマンス論的な側面で「意味」が生じるのは排除しようがない)