隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

私の中のシャーロック・ホームズのイメージは、翻訳された言葉から形作られている

読み進めたい、と思わせる力をシャーロック・ホームズはやはり持っていました。小学生のときに読んでも、大人になって読んでも変わらない面白さを感じさせてくれることはとてもすごいことだと思います。

先日図書館に行った際に新潮社文庫の『シャーロック・ホームズの冒険』を見つけたので借り、そして読了しました。
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赤髪組合、オレンジの種五つ、まだらの紐などの著名な作品を含む10の短編が収録されています。
私はどこにでも居るようなただのシャーロック・ホームズが好きな人ですが、そんな私がシャーロック・ホームズに感じる魅力は探偵の魅力にほかなりません。
ホームズの探偵事務所に持ち込まれる謎は一見しただけでは理解できないものですが、目の前で見てきたかのように解決していくホームズの手腕にはいつも驚かされます。ホームズという探偵は、自分のことを有能な探偵であると自負しているところが個人的には好きなところです。


さてホームズを読みながら思い出したのは、米澤穂信さんの「〈古典部〉シリーズ」でした。2012年にアニメ化しました『氷菓』は、このシリーズの中の1つです。この作品の中で福部里志というキャラクターがいますが、この福部里志の話し方、話法がホームズのそれにとても似ています。
詳細はネタバレになるため省略しますが、改めてホームズを読み返してから福部里志の会話運びを見ると、福部里志がホームズを意識していること、米澤穂信さんがホームズを意識して福部里志を創ったことが伺えます。
というところまで思考を進めて思ったことは、私がイメージするホームズの会話運びは全て日本語で読んできたものから形作られているのに、本当にそれはホームズなのだろうか、ということでした。ましてや福部里志に感じる「ホームズのような会話運び」とは何なのかと。
そもそも翻訳されたものは多かれ少なかれそうだとは思いつつ、ホームズという強力な個性を持つキャラクターが、私の中では翻訳された文章からのみから構築されていることを思い出して、急に怖くなりました。翻訳された書籍を手に取る度にこんなことを考えているわけではないのですが、ふと怖くなりました。

とはいえ、私の母国語は日本語であるからして、たとえ原文を読んだところで著者の作り上げる一言一句を鮮明に感じ取ることは到底難しいだろうとも思います。ですから、原作者はもちろんのこと翻訳されている方や出版社に感謝をしながら、日本語で作品を楽しむというのが正しい姿なのだと思います。

ただ、繰り返しになりますが、私が古典部シリーズの福部里志に感じる「ホームズっぽさ」とは一体何なのでしょうか。つまりこれは、福部里志を生み出した米澤穂信さんが意図的に創りだした「ホームズっぽさ」なのであろうと思うのですが、それを、少なくとも私は感じることができているわけです。共有された無意識の知とでもいうのでしょうか。

構築されるイメージの元が母国語である必要はきっとなくて(というか母国語のみしか無ければ機会がなくなってしまう)、例えば外国の方がドラえもんクレヨンしんちゃんやナルトに感じているイメージが、私達が感じているそれと違うなんてことは言い切れませんし逆もしかりです。


はたしてキャラクターが、読者の中で形作られるとはどういうことなのでしょうか。私はこの夏に創作にチャレンジしてみようと思っていますが、キャラクターが形作られるという点には深く注意したいと思います。

以上オチ無し。