隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

感情の羅列だけでは自身の伝えたいことは本当に伝わらないのか? 一生逃れられない書き手の苦悩

概説

いわゆる「実況」における感情的な言葉の垂れ流しであるとか、twitterなどにおける脊髄反射的なツイートのような内容を、感想としてそのまま記事にしたとしても、果たしてそれは読み手に好まれるかどうか。すると、そういった内容とは正反対のお固い文章が出来上がります。お固い文章の中にも、書き手の愛を感じるものも沢山あるということは理解するものとして、しかし書かれるアニメの感想の内容は、無機質で論理的で哲学的で、上から目線で堅苦しく読みにくく理解がしづらいものが溢れることになるのではないでしょうか。

そもそもなぜ、感情的な感想を書きなぐる構成から書き手は脱却しようとするのでしょうか。それは、自身が伝えたいことを読み手側に誤解なく、理解しやすく伝えるためには、感情を羅列するだけの構成では不十分だからだと思います。
またネットでの一般的な評価として考えた場合、感情的な文の羅列という構成は見栄・体面・体裁が邪魔をしてできないからだと私は思います。

では、そこからさらに脱却できるのかといわれるとこれも難しいと思います。何度も述べますが、自分が伝えたいことを読み手側にしっかりと伝えるためには、感情の羅列では難しいという壁が立ちはだかるからです。結果として文章はお固くなってしまう。矛盾を抱えたまま、書き続けることになるのでしょうか。

その答えの一つとしては、今現在の自分の文章形態は、自分の思いを伝えるための最大限の努力をした結果だ、という慰めのようなものが考えられます。様々なことを考えた結果、現在に至っているという感情です。
しかし、心のどこかで「本当にこのままでいいのか?」という気持ちを抱えたままになることからは、逃げられないのでしょう。

長々と概説でしたが、以下はさらに詳細に述べていきます。

そもそもなぜ、感情的な感想を書きなぐる構成から書き手は脱却しようとしてしまうのか

唐突ですが、「w」という文字表現があります。この使い方一つとっても、感想の書き方の異常さがよく分かります。

「w」という文字は、自身の作風・文体の特徴としてわざと多用したり、超効果的に使用する場合を除くと、なぜか低俗に見られがちではないでしょうか。ネットスラングだからというのも、理由のひとつかと思います。

例えば、

  • 昨日のけいおん、死ぬほど面白かったwwwww

という一文を見るだけで、なぜか知性が無い様に感じてしまいます。では、これを論理的()な書き手はどうするかといいますと、例えば

  • 昨日放送されたけいおん、今までも確かに神回が多かったわけですが、それらに負けないくらいの面白さがあったと思います。

という文章になったりするわけです。

ここでふと思い出すのが、「爆発音がした」まとめ、です。
ご存知の方も多いかと思いますが、「自分の背後から爆発音がしたので、振り向いた」という内容を文章として表現する際に、書き手によって、またジャンルによってこんなに変わってくるぞというのを風刺したネタです。

書き手は、つまり自分の個性を出すために精一杯、文章表現に力を入れるわけですが、これはアニメの感想を書く場合でも同じだと私は思います。
前述したけいおんの例もそうですが、感想を書かれている多くのサイト・ブログでは、まず最初にその回の全体的な面白さがどうであったかを書く場合が多いかなと思います。お気に入りに感想サイトが沢山入っている方はよく分かると思うのですが、なんとまぁ十人十色、多彩な書き方があるわけです。

ここで先程の例をもう一度取り上げます。

  • 昨日のけいおん、死ぬほど面白かったwwwww
  • 昨日放送されたけいおん、今までも確かに神回が多かったわけですが、それらに負けないくらいの面白さがあったと思います。

さて、どちらがより感情が出ているかというと前者だと私は思います。では自分が実際に感想を読む際にどちらが思考停止しやすくなる、読みたくなくなるかと言われると、おそらくそれも前者になろうかと思います。
なぜか?それは「w」を使うと知性が感じられなくなるからでしょうか?低俗だと思ってしまうからでしょうか?
「なんだこの感想は、ただ自分の思ったことを垂れ流しているだけじゃないか、読むに値する文章じゃない!」と?

書き手からすると作業工程が増える分、ただ適当に感想を羅列するだけよりは、文章を固くするのは難しいです。まず自分の感情をアウトプットして、羅列して、最終的に言いたいことや、全体の流れなどから文章の構成を考える。難しく書いている中にも、実は感情的にも訴えているんだと感じ取ってもらうための言葉選びや文章表現を考えるetc...。

こんな作業を行ってまで、なぜ文章をお固くするのか。これは何度も述べていますが、自分が伝えたい事を読み手側に誤解なく、理解しやすく伝えるためには、感情を羅列するだけの構成では不十分だからだと私は思います。

感情の羅列は、読ませるものとしては成熟していない?

時々、アニメを見終わった後にtwitterでひたすら感情をぶちまけることが私はあるのですが、そんな時、他人から冷静に「それは違うんじゃないの?」という批判を受けることが多々あります。感情的なツイートであるが故に、主張に一貫性が無かったり、適当に単語を選んでしまうせいか、誤解を受けざる得ない内容になっていると自覚しております。
ただ記事として上げるとなると、細心の注意を払い、誤解を招かないよう、また自身が伝えたいことがこの文章で伝わるかなど、推敲を重ねるわけです。お固い文章になってしまうのはしょうがないのでしょうか。

結局、お固い文章になってしまうんでしょう?

実際自分はどうなのか。感想を書き始めた初期の頃は、まさに感情の羅列タイプの書き手だったかと思います。つまりアニメ1話の流れに沿って、自分が感情的になったところを逐一記録し、それを吐き出すという内容です。以下に、1年ごとの記事を、適当抽出したものを並べております(なお、どういう変遷を辿ったかについては、すぐ下に書いておりますので、ざっと流し読み程度で結構です)。

時系列の変化と共に、「上から下へ、まさに直情的に感想が羅列してある」→「時系列でダラダラと書くのではなく、まず自分が一番伝えたいものを冒頭に持ってくる。そして、内容について逐一報告するタイプから自分の思いを丁寧に書く、読み手に伝える書き方を心がけている(自分が書いているわけなんですが)」→「本編の概要を伝えつつ、どこに自分が面白さを感じたのかを積極的に伝える姿勢が見えます。また、この思いは伝えたい!という部分に感想の大部分が割かれています(この例なら、エルカというキャラクターがかわいい、ということを伝えたい)。」→「説教臭いといいますか、まず自分の感想を述べた上で、『ここは〜ですよね、だから〜あって、〜だと思うのですよ』という内容に割く部分が増えている」と、間違いなく文章がお固くなっております。

間違いなく後者に行くほど、根気を使うようになっていますし、事実時間をかけて書いています。これには、読み手に分かりやすくという以外の理由がありそうです。

結局、見栄・体面・体裁が邪魔をする

私が感想を書き始めた頃のお話。その頃はまだ積極的に他人の感想を読んでいました。あるアニメのある回で、私は「うーん、今回はちょっとつまらんかったなぁ・・・」という感想の羅列をする予定でした。しかし大手感想サイトさんが「今回の内容は〜で、〜だから、〜という理由があって、実に深いお話でした」と書かれているのを先に見てしまったのだから大変です。自分の、「つまらなかった」という思いを「面白かった」にすり替えなければいけません。

どうしてすり替えるの?と思われる方もいるかもしれませんが、ことネット社会においては、少数意見というのはハブられる傾向にあります。良くも悪くもです。

例えば現在、けいおん2期がツマラナイという意見を書いても、支持されず封殺されてしまうことでしょう(多分)。2chtwitterなどではそういった内容を吐くことがあっても、文章にまとめてアップする人は、まぁ少数だと私は思います。また書いたとしても「ここをこうすれば、もっと面白くなると思うんですけどねー」とか「〜は可愛いんですけどねぇ」とか、予防線を張ってしまうことでしょう(多分)。

さて、データを取ったわけではないのでわかりませんが、多くの書き手はまず読み手を経験してから始まっているのだと思います。だからこそ、自分がいざ書き手に回ると「〜しなければんらない」「〜するとあまりよくないかなぁ」という先入観の元、書き始めることになるのかなと思います。すると、先程も例を挙げましたが、大手のサイトさんの書き方・考え方に影響されてしまうのは必然だと私は思います。そうあらなければならない、というある種のプレッシャーというか、義務感が生じるといいますか。

矛盾を抱えたまま、書き続けることになるのか?

思ったことを、とりあえず羅列する→このまま羅列しても、内容が成熟していないので人に読ませるレベルではない→煮詰めよう。自分は一体何が一番いいたいのか。出来る限り誤解なく伝えるために多少お固い文章になるのも、やむなしか→文章が完成。読み返してみると随分伝わりやすい文章になった気がする→実際、読み手の視点で今一度読み返してみると、なんとも読みづらい文章だなぁ→もう少し感情を込めた文章にしてみるか→最初に戻る

例を挙げます。私が「乃絵がとにかく可愛かった!」と伝えたいとします。単に「乃絵可愛すぎワロタ」「乃絵の可愛さは異常」といったような文を並べてもなぁと、思います。となれば「このシーンでは乃絵はこういう挙動をするんですよ。めっちゃ可愛いでしょ」とか「この時、乃絵の内面はきっとこうで、だからこの行動につながるんですよ。こんな繊細さを持っているのは乃絵だけ」という書き方をすれば、より説得力が出るかな、と考えます。でも、なんか文がお固くなって読みにくくなっているような。やっぱり当初通り、脊髄反射的な羅列にするかなぁ→最初に戻る

自分を信じるしかないのか?

結局、自身が何を伝えたくて、何のために書いているのかに落ち着くのかなとは思います。私は、いかにその作品が面白いかを伝えたい、そして多くの方にその気持を共感してもらいたい、その作品を見てもらうキッカケになってもらいたい、そんな思いから感想を書いています。ですから、その結果として今の自分の文章形態があるわけで、「一応」納得は出来ているつもりです。ですが、ふと、このままでほんとうに良いのか?と思います。
なぜなら、自身で感想を書きたいと思った理由の一つには、無機質で論理的で哲学的で、上から目線で堅苦しく読みにくく理解がしづらい文章に、嫌気が差していたからで、今の自分の文章は、それに合致してしまっているのではないか、と思うからです。

まとめ

自身の今の文章形態に満足していて、またそれに理由付けができるのであれば、それで良いとは思います。しかし、心の何処かで「本当にそれでいいのか?」という気持ちを抱えたままになることからは、逃げられないと思います。