以前書いた、『境界線上のホライゾン』1話、ワクワク感! そして光規制!という記事では、主人公のトーリが先生の胸を揉むシーンに光規制が入ったことを取り上げました。
その事についてDDさんという方から、以下のコメントをいただきました。
光規制は大抵の場合、アニメ側ではなく放送局側が勝手に判断して入れているのでは?
『境界線上のホライゾン』1話、ワクワク感! そして光規制! - コメント欄より
光規制等の規制は、基本的には各放送局によって定めらている倫理規定・自主規制基準によるものだと言われています。青少年の健全な育成のため…倫理的な問題ということです。
アニメの規制に関しては、初めて湯気規制とパンチラ規制されたTVアニメは何か - 戯れ言、という記事が素晴らしくまとまっていますので、一読いただければ理解が深まるかと思います。
アニメの規制に関することは常日頃から考えているのですが、今回コメントをいただいたことで改めて考えてみようと思い、Twitterで取り留めなく呟いていました。
Togetterにまとめたものが以下です。
アニメの光規制などに対する憤りは、どこへ向ければ良いのだろうか - Togetter
少し量が多いです。以下に、上記Togetterより適当にツイートを抜粋していますので、興味が湧いた方、よろしければご一読ください。とりとめのないという言葉通り、話の結論やまとまりがありませんが何かの刺激になれば、と思います。
しかしここで一つの疑問というか反論を考えないといけない。「制作側も好きで規制しているわけではない」というものである。規制というのは多くが放送局による自主規制であると認識している。つまり、「ちょっとエログロな表現をやってみました各々の放送局で自主規制基準で規制」ということである
さて論点を少し整理する。私達がアニメにおいて、例えば光規制と相対したとしよう。その時に、どんな態度を取ればいいんだろうか。「まぁ、倫理的な観点からすると、規制は仕方ない部分はあるよね」という楽観的な態度を取るのが一番良いのだろうか。
しかしこういった考え方は、制作側の表現の自由を侵害しようとしたり制限しようとしたりするエゴなのだろうか。そうやって自分がこうあってほしい(規制されない表現を使って欲しい)、という願望を押し付けることは、果たして正しいことなのだろうか。建設的意見なんだろうか。
アニメは、ありのままを見ることができるのが私たちの権利だ、と強く思いすぎているところにエゴがあるのではないか、とは感じている。 規制されると、まるで私たちは規制される前のものを見れるのが当たり前だと騒ぎ出す、という考え方である。