隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

『C』はメッセージ性アニメ

いろんなアニメが最終回を迎える時期、みなさまはアニメ消化に追われている毎日でしょうか?
さて、ノイタミナ枠の『C』が終りを迎えました。考察しなければいけない点がたくさんの、そんな終わり方でした。
本記事では『C』が持つ強いメッセージ性について書こうと思います。最終回の気になる点など個別に見ていく記事は、また別の機会に。

メッセージ性なんてあったのか

いろいろと考えさせられました。例えば以下のようなこと。

  • 今を生きるために未来を犠牲にしてもよいか、そしてその逆は?
    • 自分の身近な人が生きている今を大切にしたい?
    • 未来を犠牲にしてまで、今の身近を大切にしたい?
  • 自分の想いだけを信じ、突っ走って良いのか?
    • サトウさんも三國さんも、突っ走った?
    • 公磨は自分の思いを貫いたの? それとも乗っかったの?

身近な人を思う気持ちを、私は止めることができない

Qもとい貴子(三國の妹)を思っての三國の行動を私は否定することができません。
三國は「今を大切にしたい」と言っていました。もし自分の妹がああいう状態になれば、誰しも「今を大切にしてやりたい」と思うのではないかと私は思う。そう、間違っていない。

しかし「未来を蔑ろにしてまで今を大切にしたい」という三國の思想は、宜野座、ジェニファー・サトウそして公磨に否定されます。いや、否定は単なるポーズだったかもしれない。だけど、「間違っている」という言葉として発せられているのも事実。
なぜ否定をしたのか。それは、それぞれが自分の思いを貫こうとしたからにほかなりません。

ここが一番のポイントです。誰にも否定する権利なんて無いと私は思うのです。「今」の捉え方なぞ、人によって大きく違う。サトウさんは未来に重きを置いた。公磨は、今も未来も、というスタンスを取っていた。だけど、みんな違って当たり前。
だけど、だからぶつかり合った。自分の大切な想い・気持ちを貫くために皆、戦った。自分を貫くために他人を否定すらした。

皆が自分の理想を実現するためにひたむきに努力をすること、そういうメッセージを強く感じました。みんな違ってみんないいんですよ。



この「みんな違ってみんないい」旨をTwitterで呟いていたとき、@einbeltさんからこんなリプライをもらいました。



この意見には概ね同意です。正解なんて分からんのですよ、この不確実性の時代。

公磨は三國と戦う必要があったのか

Cのクライマックスは、公磨が三國の考えに疑問を持ち、そして最後は自分の思いをかけて戦うことでした。
上述しましたが、皆自分の思いを貫くために動きました。だから、自分を信じて行動すること、それは許せる。だけど、公磨が三國の想いを止めるために三國と戦ったのは、少し違うと思いました。つまり、公磨には金融街そのものと戦って欲しいという思いが私にはありました。
ミダスマネーを現実世界で使用しようとしなかったり、最終的には輪転機を逆転させることで未来を買い戻したりと、確かに結果的には金融街と戦っていると見ることもできます。ですが、別の方法があったのではないかと思います。
つまり、公磨はもっと三國と話し合うべきだった、ということです。アニメから感じ取れる部分だけになりますが、おそらく、公磨は三國と殆どコミュニケーションを取ってなかったように思うのです。コミュニケーションは密度が大事だとも言うけれど、ある程度回数をこなすことも必要だと思う。そうやってお互いのことを分かっていくわけです。
アニメでは、二人とも自分の理想に突っ走りすぎて、お互いが見えていなかったように思うのです。一見矛盾しているように感じますが、自分の理想を押し通すためには最大限の努力をする必要はあるでしょう。

努力をして努力をしてそれでもダメなときに、ようやく最終手段という選択があるのだと思います。そしてその最終手段がどんなに非道、非人道的であっても、私はそれを否定することはできません。それが考えぬかれた末の結果で、そして身近な人を守るためであるならば。

まとめ

本記事では最終回のシーンを個別に見ていくというよりは、もっと大枠、メッセージ性について考えました。正直なところ、まだまだ考えることがありすぎてキリがありません。しかも一つ一つが難しい問題で、時間がかかっています。時間の許す限り、考察記事を書いていきたいと思います。