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真に省エネなのは里志なのではないか --原作『氷菓』『愚者のエンドロール』を読んで

ところで皆さんは「〈古典部〉シリーズ」というものをご存知でしょうか。古典部シリーズとは、米澤穂信(よねざわ ほのぶ)さんが書かれている推理小説シリーズです。
そして、現在放送中のアニメ『氷菓』とはこの古典部シリーズの作品の中の一つを「アニメタイトル」として採用しているのです。すなわち、『氷菓』シリーズが存在してその中に愚者のエンドロールのお話があるのではなく、古典部シリーズとして『氷菓』や『愚者のエンドロール』が存在しているのです。以下はamazonへのリンクです(Notアソシエイト)

氷菓 (角川文庫)

愚者のエンドロール (角川文庫)




なぜわざわざこんなことを書いたのかといえば、私が上記のことに気づいたのが、アニメ『氷菓』の1クール目を見終わった頃に原作を読もうと思って改めて調べたからでした。それまではずっと氷菓シリーズがあるものだと思っていたのでした。
導入終わり。



さて本記事では原作『氷菓』及び『愚者のエンドロール』を読んだことで、アニメ『氷菓』を見ていた時から何かしら思うところがあった「省エネ」という考え方について多少考え方が変わったことがあり、また里志と省エネについて絡めて考えていたら面白くなってきたので、言語化してみました。
以下は、『愚者のエンドロール』までのネタバレを含みますのでご注意下さい。






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「省エネ」という考え方

主人公の折木奉太郎は、「省エネ」というモットーを持っている。原作「氷菓」の開始8ページで、既に以下の記述がある。


氷菓,pp8.

「ただ単に『省エネ』なんだよね、ホータローは」
俺は鼻を鳴らすことで肯定を示した。わかっていればいい、俺は別に活力を嫌っているわけではない。ただ単に面倒で、浪費としか思えないからそれらに興味を持たないだけなのだ。至って地球環境に優しい省エネが、俺のスタイル。その合言葉はすなわち、
「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に、だ」


私はこの考え方が大好きです。アニメで初めてこのセリフを聞いた時も、思わず「素晴らしい」とテレビに向かって叫んでしました。多少、自分に重ねるところがあったのだと思います。

さてそんな折木くんですが、千反田えるに出会うことで、徐々に考え方というか生き方を変化させていきます。モットーとしていたはずの「省エネ」に背く行動をするために理屈を付けたりするぐらいだから、かなり驚きでした。
原作での以下の部分には思わず笑いが出てしまいました。


氷菓,pp83-84.

(略) 思えばそうだ、千反田はその好奇心で掘り下げているようなやつだ。そいつが過去を掘ろうとするのは不思議でもなんでもない。伯父への手向けに、そして多分それ以上に自分のために千反田は過去を掘ろうとする。そして、不幸にしてこいつにそれを成し遂げるだけの力がないとしたら。
 考えあぐねる俺の脳裏に、姉の手紙の一節が、ふと浮かぶ。----どうせ、やりたいことなんかないんでしょ?
 ……そうとも、俺は省エネの奉太郎。自分がしなくてもいいことはしないのだ。
 だったら、他人がしなければいけないことを手伝うのは、少しもおかしくはないんじゃないか?

 (太字は筆者)


折木のモットーの「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に」とは、「(俺が)やらなくてもいいことなら、やらない。(俺が)やらなければいけないことは手短に」という風に、自分本位が見える。そのモットーに矛盾しないように、上で引用したようなロジックを組み立てているのです。太字の部分の論理構成を見た瞬間、折木、やっちまったな、と思ったものです。こういう部分にカタルシスを感じますよね、私だけですかね。

当初私は、氷菓という作品は折木の省エネに関する考え方を延々と記述していくストーリーなのかなぁと思っていたのです。もう少し厳密に言うと、「面倒くさい、やりたくない」と文句を垂れ流す感じなのかなぁと思ったのです。しかし実際は、省エネに対する折木の考え方について延々と垂れ流す感じになったわけです。同じようでちょっと違います。


さて氷菓事件を解決した後、折木は自分のモットーに対してどういう考えを持ったのか。私はてっきり上述した太字のように、モットーを守りながらもうまく自分を納得させるロジックを組み立てる方向性に行くのだと思っていました。しかしそれは原作『氷菓』エピローグにおける、姉、折木供恵への手紙で否定されます。


氷菓,pp212-213.

姉貴なら、俺がどういうスタイルを好むか知っているだろう。だが俺は高校入学以来、里志や、姉貴の知らない連中に囲まれ、そいつらの俺のやり方に反したスタイルを見るにつれ、どうにも居心地の悪い思いをしてきた。それは、古典部に入ることがなければ、味わわなくてもよかった感覚だと、いま思う。無所属を貫けば、俺は自分のモットーに疑問を感じることなどなかっただろう。

 (太字は筆者)



面白い、実に面白い。モットーに疑問を感じ始めているのです、折木は。この部分はすごく感じるところがありました。今までずーっと省エネというモットーに従って生きてきた折木が、主に千反田えるに出会うことによって変わっていく様。この部分にも大きなカタルシスを感じました。

真に省エネなのは里志なのではないか

さて、ここでようやく記事タイトルの話に入ります。
折木は今後どういう変化をしていくんだろうなぁと原作『愚者のエンドロール』を読み進めていますと、興味深いやり取りがありました。それは折木が自分のモットーに疑問を感じていることを、里志に相談とも質問ともいえない問いかけをするシーン。


愚者のエンドロール,pp189.

(略) 気がつくと俺は、自分が囚われている事情を打ち明けていた。
「……お前は、お前にしかできないことがあると思うか」
 あまりに問いが曖昧だった。里志は首を捻り、慎重に答えを返してきた。
「何でそんなことを訊くのかわからないけど……。過去未来に亘って、世界の全ての地域の人間を集めてきて、その中で僕にしかできないことはせいぜい一つだと思う」
 その条件でも、あるのか。
「それは?」
「決まってる。『福部里志の遺伝子を残す』ことさ」

まだ2巻までしか読んでいないのですが、それでも里志の全能感というか、自分を作ってる感は圧倒的だと思います。それは折木が里志のことをそういう描写(例えば「口元の笑みは完全には消えないが声色と目はシリアスという、やつ一流の真剣さで言った」とか、その他多数)で説明するからもあるのですが、そうは言っても、里志はすごく自分を大切にしていることが分かる。


上の会話に続いて、さらに折木が問いかけをする。「神山高校で、お前が第一人者だと自任できる事柄はあるか」。それに対して里志は即答で「ないね」と返す。そして以下を続けます。このセリフは、私がこの記事を書こうと思ったキッカケにもなりました。


愚者のエンドロール,pp189.

言わなかったっけ、僕は福部里志に才能がないことを知っているって。例えば僕はホームジストに憧れる。でも、僕はそれにはなれないんだ。僕には、深遠なる知識の迷宮にとことん分け入っていこうという気概が決定的に欠けている。もし摩耶花がホームズに興味を傾ければ、保証してもいい、三ヶ月で僕は抜かれるね。いろんなジャンルの玄関先をちょっと覗いて、パンフレットにスタンプを押してまわる。それが僕にできるせいぜいのことさ。第一人者にはなれないよ


「いろんなジャンルの玄関先をちょっと覗いて、パンフレットにスタンプを押してまわる」ことは、一見、省エネとは違うようにも思う。しかし、よくよく里志の口グセを思い出してみれば、納得がいく。

「データベースは結論を出せないんだ」

この言葉はただ聞くだけだと「ふーん」となるのですが、裏には「自分がデータベースである」という前提があるんですよね。この前提って凄いですよ。そしてそれを口グセとして言い切る里志は、自分がデータベースであろうとすることに力を注いでいるのではないか。
折木の言う省エネとは無駄な部分にエネルギーを使わないことですが、裏を返せば自分が無駄ではないと思った部分にエネルギーを集中させることだとも言える。つまり里志は、データベースであろうとすることにエネルギーを集中させ、結論を出すことに頓着がないのではないか。
一見、省エネとは程遠い里志が、実は一番省エネなんじゃないか、と感じたのです。

ではホームジストを目指しているとはどういうことなのだろうか

さてここまで考えて、ふと、里志がホームジストを目指していることと矛盾しているのではないかとも感じ始めました。里志は、シャーロキアンではなくホームジストにあこがれているという。ではそもそもシャーロキアンとホームジストの違いとはなんだろうか。
シャーロキアンやホームジストについて知識が殆ど無かったので、簡単にグーグル先生で調べてみると、どうやらホームジストという言葉は、原作者の米澤さんの造語っぽいという情報がちらほら出てきた。例えば[読書]シャーロキアンとホームジスト - 私が疑問に答えます。(自分の)という記事では、以下の様な考察をされている。

(略)
Sherlock Holmesから、Sherlock - ian あるいは Holmes - ian とし、「シャーロック・ホームズを奉じる(人)」という意味合いだろうか。


"ホームジスト"とは、Holmes - ist ということになるだろう。

厳密に言えば、"ホームズ"という固有名詞に-istはつかないのだろうが、もはや個人名というよりホッチキスやバンドエイドといった商標のようなものになっているのだろう。


作中でいう、"ホームジスト"とは、-istの1「…する人」に近い2「…に巧みな人」「…家」で、シャーロックホームズ役の人、ざっくりいえば推理する人、探偵役っていう意味なのだと思う。

シャーロキアンとホームジスト - 私が疑問に答えます。(自分の)

もしホームジストが「探偵役」を指すとするならば、「データベースは結論を出せないんだ」という里志の言葉は何を意図しているのだろうか。


私が思うに、データベースは結論は出せないが矛盾を導き出すことはできるのではないか、そしてすべての矛盾を導き出した時、残るものは真実なのではないか。すなわちシャーロック・ホームズの有名な以下のセリフに繋がっているのではないか、と考えた。

「不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる」(When you have eliminated the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth.)
引用元(シャーロック・ホームズ - Wikipedia



つまり里志の口グセ、「データベースは結論を出せないんだ」、はまさしくホームジストを目指していると言えるのではないだろうか、と感じました。「結論」を出すためには、知識を元に答を出す必要がある。しかしもし、全ての矛盾点を洗い出すことが可能であれば、残るものは真実なのではないか。結論が導き出されるものであるのに対して、真実は浮かび上がるのではないか。
そういう思考法が里志の中では行われており、その結果「データベースは結論を出せないんだ」という部分で止められているのではないか。

そしてそういう意味で、里志はやはり省エネなのではないか。自分が力を注ぐべき点を理解し、そこにひたすらに邁進しているのではないか。そのうち折木が「お前こそ省エネだよな」などと言うのではないか、なんて期待しています。
しかしもし里志が探偵役を目指しているとしたら、その探偵役に目覚めようとしている折木を見ていて、里志はどう感じているんでしょうかね。折木は自分に探偵役の素養があるか悩んでいるが、それに対して里志は「なろうと思えばお前はいつか、日本でも指折りのホームジストになれると思う」という折木の言葉をそのままそっくり返したりもしている。
いやぁ、二人の関係性は実に複雑ですなぁ。

ホームジストになれなかった折木

ここからは少しそれますが、探偵役に関連して、愚者のエンドロールのオチについての感想をば。

愚者のエンドロールのオチはまさしく「君は探偵じゃなく、推理作家になるべきだな」という言葉に集約されている。これはまさに逆説的で、今回折木は本来は「探偵役」として動かなければならなかったが、結果的には「推理作家」となっていたということである。
折木がなさねばならなかったのは、千反田えるの思考そのものだったのです、すなわち「本郷の真意を汲み取る」ことが探偵役として求められていたわけです。しかし結果として「万人の死角」というシナリオを書いた、ただの推理作家となっていたわけです。

作中では折木が探偵役をやっているように見えて実は千反田えるが探偵役だったという皮肉なオチになっているわけで、いやぁ、実に面白いなぁと思いました。「万人の死角」上映後、古典部の面々に次々と矛盾を指摘され真相に気づいていく過程の折木の心情はたまらんですね。カタルシス。

終わりに

というわけで長くなってしまいました。古典部シリーズ、めちゃくちゃ面白いですね。久々にミステリーものを読みましたが、とても楽しめました。

実は私は、初めてのミステリーはおそらくシャーロック・ホームズなのです。小学生の頃はそんなに活動的ではなかったので小学校の図書室に行っては、シャーロック・ホームズとか少年探偵団シリーズを借りて読んでいました。
しかしその後はミステリーは殆ど読まずSFやファンタジーものに傾倒したりして、古典と呼ばれるようなミステリーは殆ど読んでいませんでした。


今回久々にミステリーものを読みまして、いろいろ考えながら記事を書いていたのですが、改めて面白いなと感じました。今後の読書は、ミステリーの比率を増やそうかなぁと思いました。
アニメでは恥ずかしながら、えるちゃんばっかり見ていたせいで、ミステリーとして殆ど考えていませんでした。アニメを見た人には、原作もオススメ致します。