こういう記事が出ると乗っかりたくなるのがオタクゆえなのだろうか。
もっというと、元Twitterのツイートであろうか。
オタクが軟弱化して辛めの批評を書かなくなったから、最近のオタクコンテンツはひたすらヒロインが可愛いだけの薄っぺらい作品ばっかりになってるんだろうが。定型文と画像で褒め合うクソみたいな学級会文化をやめろ。辛口批評を書きまくって仲間のオタクと本気の喧嘩をしろ。90年代に戻れ。
— 小山晃弘 (@akihiro_koyama) May 5, 2020
乗っかりたくなるというか、ひとこと言いたくなるというか。
なにか書きたいなーと思いながら仕事をしていたら、以下の記事が目に入って、あぁなんか分かる部分があるなぁと思ったりもしたりして、引用などさせてもらいながらとにかく駄文を書き連ねたい。
nuryouguda.hatenablog.com
読者や視聴者は人を馬鹿にしたがっている。
読者や視聴者は人を馬鹿にしたがっている。
辛口批評は自己肯定感の奪い合い - 玖足手帖-アニメブログ-
この言葉が相当に刺さった。
なるべく文脈を損ねたくないので、引用をする。
今は、アニメファン同士がタイムリーに作品について語り合い、「いいね」「シェア」しあう時代だ。辛口批評を独りでセコセコ作るより、みんなと一緒に「いいね」や「シェア」を共有したほうが、承認欲求や所属欲求を簡単・確実に充たせる。フォロワー数を増やしたい・広告収入につなげたいといった野心を持っている場合も、辛口批評でモノ申すより「いいね」や「シェア」を共有する人々におもねったほうが見込みがありそうだ。
今のネットでアニメ辛口批評なんてできたもんじゃない - シロクマの屑籠
そのうえ、辛口批評を繰り出せば多くの人に嫌われたり馬鹿にされたりするリスクも高い。たとえ、知識や文献にもとづいて辛口批評が行われていたとしても、「いいね」や「シェア」で共有されている作品に楯突くこと自体、リスキーであり、心理的障壁が大きく、報われにくい。
アニメがコミュニケーションの触媒として、つまりファン同士が承認欲求や所属欲求を充たしあうための触媒として用いられている21世紀のSNSやネットのなかで、「いいね」や「シェア」の環に背を向け、一人で「辛口批評」をセコセコと作り続けるのは、よほどタフじゃないと無理だろう。というよりそんな動機が簡単には生まれそうにない。
元々記事のシロクマさんの上記内容に対して「読者や視聴者は人を馬鹿にしたがっている。」である。
私はこれまで「世間的にはこう言われているけど、自分はこう思いました」というような記事を作ることが結構ありました。「Aという作品はこういうものだから」みたいな、一辺倒な論調が大嫌いで、逆張りではないのだけれども、一石を投じたいというか、そうではないと思っている人もいるんだよっていうことを強くアピールしたいという気持ちがありそういう記事を書くことがありました。
私のブログで最もブクマ数が多いのは以下の記事なのですが、これはまさにそのような記事でした。
thun2.hatenablog.jp
この記事を書いたときに嬉しかったことの一つは「ちゃんと評価をしてくれる人がいてくれるのが嬉しい」と言っていただけたことでした。反対に驚いたのは「この作品を面白いとかまじで言ってるのか?」「擁護乙」的な反応もかなりあったということでした。
『魔法科高校の劣等生』は、比較的「叩いても大丈夫だとお墨付きをもらえる作品である」と思う。元々記事で紹介されていた記事から引用すれば、以下に該当するようなもの。
「この作品は叩いていい」と認定された作品に対してだけは、過剰に辛口で批判的な感想が量産される傾向。コミュニケーションツールでもあるTwitterでは、なんだかんだで「叩く」ということが娯楽になる。みんなが叩いていないものを叩いても同意が得られずに「損」となるが、みんなが叩いているものであれば話は別だ。通常の場合であればある作品に興味を持つ人の大半はその作品に好意的な感想を持っているが、「ある作品が叩かれている」という情報を知ってから興味を持った人であれば、その作品に対して否定的な感想を持つことになる。この場合、より辛辣な感想をうまいこと表現できればできるほど、稼げる得点が増すことになる。そのために「叩く」ことはゲーム化・競技化して、さらにヒートアップする。
Twitterにおける映画感想がダメなものになりがちな理由 - THE★映画日記
この記事がバズった理由は多分私の感想が素晴らしかったのではなくて、叩いてもいい作品の擁護記事が出たから叩いてやれ、というような動機によるものが多かったのだろうと勝手に思っている。
「この作品は流石にここが受け付けなかった」というのは別に正しい感想なのだけれども、書き方によっては「この作品は流石にここが受け付けなかった、だからこの作品を好きだという人の人間性を疑う」というような気持ちが見え隠れするものさえある。そういう攻撃的な感想が、逆張り記事には多くなる傾向があると思っている。
「読者や視聴者は人を馬鹿にしたがっている。」という言葉を引用したが、これは人だけではなく作品をということも言えると思う。作品を馬鹿にし、そしてその作品を馬鹿にしない人間を馬鹿にする。ひどすぎる。
批判記事は、相当に気をつけて丁寧に書いたとしても揚げ足を取られやすい傾向にあるので、あまり書きたくないというのは確かに同意できる部分もある。自分としては正しいと思っていることを書いたつもりのものを、真っ向から否定する輩がものすごい勢いでやってくるのだから、疲れることは事実。だけれども、だからといって阿る記事を書いても楽しくないので今後も書くのだけれども。
批評記事自体が嫌いだった
少し話が変わりますが、ここまでの議論は批判記事に対して第三者がどういう反応をするのかというところに論点が置かれていましたが、私個人の話をすれば、アニメ感想を書き始めた当時は、実はアニメ批評をする記事そのものが嫌いでした。私自身がまだアニメを「批評する」という土俵にすら立てていなかったから、正当な批判がされていたとしても理解できなかったというところもあったと思いますが、それにしても相当に嫌っていました。
ただそこから紆余曲折ありアニメ批評・評論に対する自分の価値観はアップデートされていったのですが、早々根っこが変わることはなく、辛口な批評・批判記事はなるべく書かないという信念を曲げないようにしてきました。
意味もなくあるいは偏向的にネガティブな取り上げられ方がしている記事などを見つけたら、そこに噛み付くように反対記事を書くようにもなりました。
幸福な気持ちよりも、辛辣な気持ちや攻撃的な気持ちのほうが伝播しやすいと思っているので、どうしてもセンセーショナルなタイトルを付けたり中身にしたりする記事や感想が多い、それが気に食わなかったし、自分もそちらに加担するのが嫌だったから。
なのに、読者は褒める記事より雑に書き飛ばした批判を炎上させて盛り上がるんだ。誰も僕のアニメが好きっていう気持ちをわかってくれない。アニメが好きっていう気持ちより、雑に書いちゃった批判のほうが炎上してアクセスが伸びるんだ。
辛口批評は自己肯定感の奪い合い - 玖足手帖-アニメブログ-
そういう意味で、普段から毒にも薬にもならないような記事を書いている自分が悪いだけなのである。なのだけれども、毒にも薬にもならないけれども愛があればいいとは思っています。
※午前1時追記:(はてブはネガティブな批判の記事に増えるけど、ノイタミナの「C」や「おにいさまへ・・・」の感想記事は検索から定期的なアクセスがあるので、はてな村が暗黒なだけかもな)
辛口批評は自己肯定感の奪い合い - 玖足手帖-アニメブログ-
面白いことに、同じくノイタミナのアニメ『C』に関しては、検索流入の割合のうち上位を常に占めています。『C』が面白いと感じて書いた記事が今もずっと読まれ続けているということは本当に嬉しいことです。
辛口批評を書きまくって仲間のオタクと本気の喧嘩をしろ
さて当初のツイートの話に戻ると、自分が90年代のオタクではないこともあって、仲間のオタクたちと本気の喧嘩をしたことが殆どないかもしれません。
しかし例えばローゼンメイデンのうち誰が嫁なのか論争とか、スクランは誰ルートになるべきとかの議論が喧嘩なのであれば、たくさんしてきたと思います。「え? 翠星石が一番じゃないとかおかしくないですか?」とか「八雲が一番かわいいに決まってるし、幸せになるべき」みたいなことを夜な夜なチャットで話し合うのって普通でしたよね。
なんというか、作品に対して健全に話ができて健全にいろんな視点を持ち寄って楽しみながらもその作品をさらに深く知って好きになる、ということを本気の喧嘩とするのであれば、確かにたくさんやってきた。
最近はコミケなどのリアルイベントにも参加しなくなってしまったし、Twitterでも若い子と思われるフォロワーさんもいないので実態がわからないのですが、でも本当にそういう喧嘩をしていないのかと言われると、そうでもないのではと信じたい気持ちはある。
アニメというものが、お互いを繋ぐツールのように使われてきているという昨今の情勢を差し引いたときに、十分に「面白い」「面白くない」という感想が溢れていると信じたい。信じたい。
趣味でやっているソシャゲとかの界隈の話を覗くのが私は好きなので、フォローせずリストに入れて隠れて読んでいることが多いのですが、まだ大学生以下の子たちが多く、時々ソシャゲとは別のアニメの話題が出たりします。確かにメインがアニメオタクではない人にとっては作品を深く語ることがメインではないので、良くも悪くもわかり易い言葉で面白かった、つまらなかったとつぶやくことが多いのですが、でもそれが普通なのだと思う。
まだテレビが共通の話題としての強さを相当に持っていた時代、モーニング娘の誰が好きかが絶対に聞かれる話題だったけれども、モーニング娘そのものがとてつもなく重要だったわけではなく、集団生活を送る中でその話題が潤滑油になるものであり、だからせいぜい話題は「誰々が好きだ」「え、まじかよありえないわ」「やっぱそこかー」で終わるものだったのです。
当時クラスのほんの一部で三国志が流行っていましたが、やれこの武将がこういう人間で、この戦いで……みたいな話をしだすとやはり周りは興味がないし、むしろ引く雰囲気すらあったわけです。私は好きでしたけど。
翻って、今のアニメがそのような立ち位置になっているのだとすると、一見軽く見えるような感想とか批評も、別段違和感はないのだと思うのです。むしろ、本筋のソシャゲの話題になると彼彼女らは相当に議論を交わしているようにも見える。なんならyoutubeで動画投稿や配信だってやっているのだから、頭が下がる。
アニメは常に深く考えて深く楽しまなければならないというような考え方も、もしかしたらこちらからの押しつけなのかもしれないのでそこは日々気をつけていきたい。アニメは楽しんでなんぼである。
ところでふと思ったのは、こういう「若い子がどういうふうに思っているのか」を観察するのが先輩オタクの特権というか大事なことというか、伝統だったのかもしれないな、と。
ネットにしろリアルの場でにしろ、そういう現地調査を持ってして初めて今の肌感覚が分かるというのは多分そうで、私が高校生の時にオタクになり始めたときに知り合ったオタクの大先輩は、もしかしたらそういうところもきちんと観察していたのかもしれないと今になって思ったりする。ただ、同時に冥府魔道に突き落とす役割もあったのだと思う。見事にオタクになってしまいましたよ。