隠れてていいよ

主にアニメや漫画の感想を書いています

インプットとアウトプットのバランス

最近プロセカのキーストーリーを読んでは、感想記事を上げています。
それはとても楽しいことで、今の自分の生きる意味の一つといっても過言ではないのですが、少しアウトプットに傾倒しすぎているとも感じています。

定期的にやってくる哲学的な問いなのですが、果たしてアウトプットしたいからインプットしているのか、インプットしたからアウトプットしたいのか、なのです。

まず1つに、インプットしたものをアウトプットしたいは事実なのです。
私はコンテンツに触れたときの初めての気持ちをとても大事にしたいと思っています。初見感想、それは唯一無二の貴重なもので、これを書き残しておくことは何ものにも代え難いと思っています。

一方、この思想が強くなりすぎると、どんどん先を読み進めたいのに、アウトプットしないと先に進めない病にかかってしまいます。

心の奥底では「早く続きを、一刻も早く、寝る間も惜しんで読みたい!」なのに「まずはちゃんと自分の気持ちを書き残してからだ」となります。
アウトプットにはそれなりの労力を使います、ましてやブログという媒体で他人に見られるという前提となればなおさらです。

すると、インプットしたいのにアウトプットしていないからインプットできないというよくわからない状態に時折陥ることがあります。
直近だと、プロセカがそうでした。ニーゴのシナリオを一刻も早く読み進めたいけれども、自分の気持ちはちゃんと書き残しておきたいジレンマが発生していました。

そんな折、ふと以下の記事が目に入りました。
omocoro.jp

その中で、以下の部分がとても印象に残りました(画像で引用させていただきます)。

特にでも感想書こうとすると、映画を観てる最中に頭の中で「ここをこう書こう」って考えちゃいません?という部分。
まさに、こういう部分が、上で書いていたジレンマに近いものなんだろうなと感じていました。


本当はもっと気楽に創作物を楽しめばよいのに、いつしかアウトプットすることばかり一緒に考えてしまっているんですよね。

ブログのことを考えず、ただただ作品を楽しめていたのはいつが最後だろうと思うくらいには、常に何かしらアウトプットすることが横たわっているんですよね。


もう今は、思考の一部みたいなものになっているので苦痛というわけではないのですが、同時に、たまに、それが足かせとなって楽しめていないなと思う時があるんです。
プロセカも、早く読み進めたいのに読み進められないことがこの数ヶ月続いていました。


ただ、ここ最近、体調を崩して会社を休まざるを得なかったのですが、どうしても読みたくなって、プロセカのニーゴのキーストーリーを全部読んでしまいました。
ある意味では、自分に課した「初見感想」というルールを破る所業なわけなのですが……でもですね、本当に楽しくてですね。

プロセカって本当にストーリーがー素晴らしいし、ニーゴって本当におもしろいなってとにかく、とにかく強く強く心の奥底から感じて、ストレスが一気に開放されたような気持ちになりました。


これを持ってしてアウトプットのためにインプットすることが悪とは全く思いませんし、これからも初見の気持ちは大事にしていくことに異論も反論もないのですが、でもですね、時折、リミッターを外してとにかくインプットに勤しむとですね、何か清々しい気持ちになることも事実なんですよね。

そして、その後に、猛烈にアウトプットしないと! と意思が出てくるのもセットです。


あんまり結論はないのですが、今後もプロセカは適度に読み進めながら感想記事も書いていきます。
目下は、ニーゴの感想記事を上げまくります。

明日から仕事始め―2024年に向けての思い

第74回NHK紅白歌合戦のプレイリストを聞きながら、この記事の筆を執り始めました。

いつもブログを見ていただいている皆様、また普段は見ていないけれども存在は覚えてくださっている皆様、そしてはじめましての皆様、昨年はありがとうございました。
気づけば2023年は終わり、2024年が始まってしまいました。

ここ数年は、年始に抱負を掲げるようにしています。そのお陰で、一年を振り返るときの指標とできています。
昨年2023年に掲げた抱負は以下3つでした。

  • 自信を持つ
  • 読書習慣を定着させる
  • 少しでも創作をする

2022年振り返りと2023年の抱負 - 隠れてていいよ


1つずつ振り返ってみたいと思います。
ちなみに本記事のタイトルは、はてなブログの新機能?であるAIタイトルアシストを使って作ってみたものです。

2023年に掲げた抱負の振り返り

自信を持つ

一定以上、自信を持つことができた2023年だったと思います。

仕事においては、昨年8月に転職をしてから本格的にいろんなプロジェクトにアサインされてガッツリと働いた1年でした。ガッツリと言いつつ、前職と比較すれば残業時間は圧倒的に短いので気持ち的には楽な状態です。
メリハリを付けて働いていたので、稼働を上げる月もありましたが、トータルで見れば健康的に働けたと思います。

中途入社は即戦力を求められるし、会社の規模的にもゆったりマネジメントしてくれる余裕もないので、とにかく自走し続けなければならない1年でしたが、なんとかやりきれたのは自信を持って仕事を進められたからにほかなりません、と自分を褒めておこうと思います。


プライベートにおいては筋トレをかなり頑張りましたので、体が成長するにつれて自分自身に対して自信が持てるようになりました。
昔から自分の体にはコンプレックスがあったのですが、筋トレはそのコンプレックスを少しずつ解きほぐしてくれました。
また、コツコツ継続することが自分は得意であることを、今年1年は改めて感じることができました。
筋トレを1年以上、週3ペースで通い続けられたのは大きな自信となりました。

もちろん、仕事にしろプライベートにしろ失敗はしまくっていて、その度に「なぜ生きているんだろう」と暗い気持ちになることは相変わらずなのですが、昔よりは「とは言いつつも、起きてしまったことは仕方がないので前向きにいきましょう」という気持ちに、少しずつではありますが進めるようになってきたような気もします。まだまだ足りないのですが。

読書習慣を定着させる

これについては、YesかNoかで言えばYesになるかなと思いました。
ちゃんと読書記録をつけていないので正確なところはわかりませんが、2年前よりは昨年の方が読書数は多かったように思います。図書館もかなり活用しました。
また、興味が出た分野に対して集中的に読書しまくる、という古典的な手法もかなり用いました(古典的であれども、やはり効果が大きいと思いました)。

ライトノベルについては、年末にかけて『Re:ゼロから始める異世界生活』を17巻から35巻まで一気読みしました。長編シリーズを読む気になるかどうか、自分の気持ちに懐疑的でしたが読み始めると止まりませんでした。リゼロが素晴らしい作品だったことが大きいです。

読書習慣が身についた理由を考えるとすると、通勤時間を読書にあてられたことかなと思いました。
前職はリモートワークが基本でしたが、転職後は通勤が基本であり、短い通勤時間であるもののその時間を利用できました。
なにもないところから習慣づけるのは難しいので、組み合わせてやることで達成できたのかなと。

少しでも創作をする

達成できたかと思います。ブログも創作に含めております。
自分の想いを形にする行為は創作だと思っています。

いろんなものに刺激を受けた1年でしたが、特にブルーアーカイブには感銘を受けた1年でした。正直、ブルーアーカイブのおかげで、自分の中の創作物に対する感謝がまた一段階上がった気がします。

昨年の1つを色々と選ぶとすると


音楽『Aiobahn feat. KOTOKO - INTERNET YAMERO』
thun2.hatenablog.jp


漫画『龍と苺』
thun2.hatenablog.jp


スマホゲーム『ブルーアーカイブ
thun2.hatenablog.jp


小説『九年目の魔法』
thun2.hatenablog.jp


ゲーム『ホグワーツ・レガシー』
thun2.hatenablog.jp


映画『君たちはどう生きるか
thun2.hatenablog.jp


ライトノベルようこそ実力至上主義の教室へ
thun2.hatenablog.jp


アニメ なし
アニメについては、2023年は新作を1本も見なかったようです。
劇場映画としては記載したように『君たちはどう生きるか』を見ましたが、テレビ放送されているアニメは見ていない。
分かっていたことではあるものの、改めて振り返ってみると変な感じがしました。

2024年の抱負

  • 鈍感力を身につける
  • 怪我をしない
  • 判断を先延ばしにしない
鈍感力を身につける

何事も真剣に受けとめて考えすぎてしまう性格を直さないと、一生胃痛からは逃れられないと思いました。
転職してから上司に直接言われることが多かったので、特に意識した1年でした。

鈍感力というといろんな捉え方があると思いますが、考えすぎない、が自分の理解です。
杞憂というか、とにかく色んな可能性を探って、全てに備えようとしてしまい心労が絶えない。
これを避けるだけで、毎週月曜日は憂鬱にならなくて済む……ようにしたい。

怪我をしない

避けられない偶発的な怪我は仕方がないのですが、ある程度予防ができるものであったり、気を抜かずにいれば防げたような怪我は避けていきたいです。
実は年末にかけてそれなりに大きめの怪我をしてしまって、いろんなことに支障が出ていました。
特に、筋トレについては休まざるを得なかったので、体の調子がすこぶる悪くなり、大変困っていました。

怪我をしないだけでなく、自分の体をきっちりメンテナンスすることも怠らず、健康な年にしたいものです。

判断を先延ばしにしない

状況が悪くなればなるほどに、結論を先延ばしにしたくなる癖があります。
なぜもっと早くしておかなかったのか、という後悔につながることが多いです。

傷つくことを恐れているのだと思います。失敗した、やってしまった、うまくいかない……そういったことは認めるのが辛い。
そこをぐっとこらえて、すぐに判断をしていって、致命傷を無くしていかないと、やはり胃痛からは逃れられないと思いました。

結局、心の弱さが胃の痛さ、という悲しい現実が待っているのです。
克服はできずとも、まともになりたい。

終わりに

今年は、明日から仕事始めです。
ブログを書きながら胃が痛くなりそうな感じなのですが、抱負にも書いた通り、考えたところで解決できないことに心を痛めても仕方がないので、美味しいものを食べてお酒を飲んで明日に備えたいと思います。

みなさまにとっても、良い一年になることを祈っています。
私も死なない程度に頑張ります。

働きすぎても視野が狭くならないようにする努力

をしようとしている時点でもう負けなのか?

p-shirokuma.hatenadiary.com

でも、働くという営みがある一線を超えると、目の前の仕事以外は何もできなくなってしまうことがあり、そうしなければならない局面は人生や社会にはそう珍しくないのかもしれない。いや、珍しいわけがない。そのようになっていく中年はいくらでもいる。すり減りながら働いていく中年。きっと、何かの必然性があってやっているのだ。それが強いられたものか、選んだものか、選んだ結果として強いられる結果になったものかは定かではないが。

働きすぎるとブログもSNSもできなくなって視野も狭くなるな - シロクマの屑籠


確か今日の出社中の電車の中だったと思うけれども、上記ブログを読んでなんとも言えない気持ちになった。
なんとも言えない気持ちになったのだけれども、その時はとりあえずはてブして、またいつか考えようと思った。
退社後、全然関係ない悲しいニュースを見て気分が最悪になって、そういえば朝読んだブログのことを唐突に思い出してしまった。
で、更に憂鬱な気分になったので、ブログでも書かないとやってられないと思って筆を執った。


社会人になってから、お金と時間のバランスを取ることが難しくなった。
一番最初に感じたのは、社会人になってから参加したコミケだった。

「これまでで一番お金に余裕があるけど一番準備に余裕がない」などという社会人コミケあるある、笑えるけど笑えないあの格言である。
この格言のパワーアップ版というか、上位版がある。2018年に、かつてないほど体を壊しかけたときに自分のブログで自分で作ってみた言葉。

これまでの人生で一番体が壊れてるけど、一番お金もらってる、みたいな。

限界 - 隠れてていいよ


良くも悪くも頭が仕事で疲弊すると、新しいことをしようとする活力がどんどん失われていく。
人にもよるかもしれないが、自分にとっては、新しいコンテンツを取り入れるという行為は、非常に体力を消耗する行為であり、迂闊に手を出せない。

回避策の一つは、的を絞ること。
現在の自分にとって、『ブルアカ』がその一つであり、現在平穏を保てている理由の一つでもある。
絞ることで、そこに注力ができるので、体力の消耗を最小限に抑えることができる。かつ、新しいものに触れているという意識を持てる。

そもそも、なぜ体力の消耗があることをわざわざやっているかというと、それは視野が狭くならないようにする努力と言えるかもしれない。認めたくないけれども。
やはり、新しものに触れないと、自分の頭がどんどん腐っていくように思える。
だから、ブログを書き続けてアウトプットして、それらしい自分を保とうとする努力をする。

アニメをちゃんと追いかけなくなってからかなりの年月が経ってしまったが、結果、今ではアニメ体力がすっかり失われてしまった。
アニメ体力とは、新しいアニメを見る体力。常に最新の情報に触れて、頭で理解して、体に染み込ませていく作業。

今のアニメのことが肌感覚で分かり言語化できる状態が望ましいとずっとやってきたが、いつしかそれはできなくなってしまった。能力がないのではなく、時間がなくなった。

いや、これはいいわけである。
年齢を重ねるに連れて、自分の人生における優先度が徐々に様々なものに分散して、アニメに対する情熱が薄れていったということなのだと思う。
アニメが嫌いなわけではないし、今でも大好きだけれども、一時期のような、人生の中で95%位の割合を占めるぐらいの好きパーセンテージからは程遠い。
それは認めなければならない。潔く。

社会人になりたてのころは、熱意が失われていくことに恐怖感と焦りを常に持っていて、そうならないようにとにかく努力をした。
でも、徐々にストレスという魔物に負けていたように思う。

ずっとブログを書いているがゆえに、過去の自分の気持ちを取り出せるのは幸か不幸か。時系列で以下に並べてみる。社会人というキーワードで検索してピックアップした。
長いので、時間があるときのお供にでもしてほしい。

忙しくなればなるほど、アニメを見る時間は限られてきます。アニメは溜まっていきます。しんどいですよね。
もしこれが改善できなければ、社会人になってさらに時間がなくなったとき、アニメから疎遠になってしまうのではないか、と思いました。だから、何とか考え方を変えねばと思いました。

『まどか☆マギカ』6話から9話を一気見して感じたこと - 隠れてていいよ

社会人になる1年前くらいの内容で、まどマギをリアルタイムで追えず、ある程度一気見せざるを得なかったときに書いた内容。
元記事を読むと分かるが、全体的に必死になっている。

来年から社会人のため、ブログ更新云々の前に、アニメを視聴し続けられるかが不安です。
ブログ更新に関して言えば、前述した通り全話の感想を書くスタイルから考察スタイルに切り替えつつあるので、何とか来年以降も更新し続けられると思っています。

私がアニメ感想ブログを続けている15の理由 - 隠れてていいよ

当時、アニメ感想ブロガーに聞いてみた15の質問に答えたもの。質問は「 4月から新作アニメが放送されます。4月から新生活を始める方もいると思いますが、今後のブログはどのように続けていこうと思いますか?」というもの。まさにストレートな質問であった。不安だったそうだ。

私は社会人になってもアニメを見ていますが、アニメを視聴するペースは別として、見ている量自体は、最盛期に近いものがあります。すなわちほぼ全部見てる、という状態です。またブログ更新頻度も、それなりに上がっています。

この現象に対して、当初は深く考えていなかったけど、やっぱり気になったので考えた。そうしたら、それは「怖いから」だという事がわかった。

これまでアニメに当たり前のように接してきたわけです。でも、もし、社会人になったからといって「ちょっと忙しいから見るアニメを絞ろうかなぁ」とか言って、思うだけならまだしも実際に実行してしまったら、きっともう二度とアニメに対して熱を持って接することができないかもしれないという怖さがあるんです。

良かった、まだ変な方向に傾いていなかった - 隠れてていいよ


この記事は、全体的に、負けそうになっている自分に言い聞かせている内容で、今読み返しても結構えぐられるものがある。
これ以外にも、結構核心をついたことを書いている。

怖い。今アニメを見るのを止めてしまったら、なんとなく戻れない気がするのです。今アニメに対して考えることを止めてしまったら、なんとなくアニメから離れちゃう気がするのです。16日に「結構忘れてる、だけど好き」が成り立つ理由という記事を書いたけど、多分この記事の自分の中の本質は、怖いから、だと思う。怖いから、理論武装しないと戦っていけなくなっている。

◯◯を卒業する、とか言葉があるけど、実際卒業なんてしなくていいはずなんです。卒業させているのは、周りの環境だとか世間の目だとか現実問題とか、そういうのがあるからですよ。
でもやっぱり環境が変わって、生活が変われば、そういう「卒業」という言葉がよぎる。いや、完全にやめることはないかもしれないけど、「減る」という方向へ流れる。

良かった、まだ変な方向に傾いていなかった - 隠れてていいよ

そうやって、無意識にセーブを掛けて物事を楽しめなくなっているという現状を再認識して、凄く怖くなったのです。無意識的に打算的になっている自分が怖くなったのです。

良かった、まだ変な方向に傾いていなかった - 隠れてていいよ


「怖くなった」という言葉の使い方からして、やはりもうそちら側へ倒れようとしていたのだと思う。


thun2.hatenablog.jp
たくさんのアニメを録画して、全然視聴ができない状態を逆説的に感情放出したような記事。
アニメを見れていないのは、自分が原因であることなんて分かっているけれども、書かずにはいられなかったのだと思う。

thun2.hatenablog.jp

でも、後からちゃんと反省した記事も書いていたようで、自分ながらに今あらためて、偉いと思った。

人それぞれ何をしたいかによって環境の整え方は違うと思いますが、現状のハード・ソフト、あとインフラもですが、それらを加味してまずは「何ができるのか」を調べてみると、アニメの視聴環境の選択肢はぐっと広がるかもしれません。

もっとアニメを見たい、忙しい社会人におくるアニメ視聴環境のススメ - 隠れてていいよ

環境を整える方向性も考えていた時代。大真面目でした。

本当に愛があれば、どんなに忙しくてもアニメをアホほど見続けることができるのか。「ヤリヨウによっては色々できるでしょ。甘えてんじゃないよ」と思う時もあれば「まぁ、忙しいのなら仕方ないのかもしれないね」と思う時もあれば「今は充電期間中」と思う時もあります。

あるとき、Twitterでフォロワーの人が「忙しくて見れなくなったと言っている人は、言い訳を探してただけでしょう」(意訳)とツイートしていました。それを見て、胸が苦しくなりました。
なぜ苦しくなったのかといえば、自分ではそんなつもりはなかった、つまり「言い訳なんて探していない」と思っていたつもりなのに、その言葉を聞いてしまったら、それについて考えてしまった自分が居たからです。
「それを考えてしまうということは、心の何処かで、深層でそう思っていたということでしょう」などと考え始めてしまうのだから辛い。そんなつもりはない……はずなのに。

社会人になって「忙しくてアニメ見る暇なくなった」って言ってる人は始めから言い訳を探していただけでしょう - 隠れてていいよ

「一度距離をおいたらもう二度と戻ってこれなくなる」と、社会人の1年目に悩んだことを覚えています。本当に怖くて怖くて、怖かったからますますアニメに近づいて泥沼にハマっていました。でも、やってみないと本当にアニメから離れてしまうか分からない、というある種の達観が最近はありました。

社会人になって「忙しくてアニメ見る暇なくなった」って言ってる人は始めから言い訳を探していただけでしょう - 隠れてていいよ

東に「このアニメの楽しみ方がわからない」と言う人がいたら、行って楽しみ方を施し、西に「このアニメは糞」と言う人がいたら、行って「そのアニメは神アニメ」と言い、南に「どのアニメがオススメですか」と言う人がいたら、行って厚かましいぐらいアドバイスして、北に乃絵派だ比呂美派だと争っている人がいれば、詰まらないからやめろという(乃絵が天使に決まってるだろ)。
そんなことがもうできなくなっているのだ。

社会人になって「忙しくてアニメ見る暇なくなった」って言ってる人は始めから言い訳を探していただけでしょう - 隠れてていいよ

特に最後の「東に~」の下りは、冒頭に書いた「常に最新の情報に触れて、頭で理解して、体に染み込ませていく作業」の結果生まれるものだという気がする。

「社会人になったら時間がなくなる」ということはこれまでも感じていたことですが、今回社会人となって本作りを初めて行ってみて、その辛さに何度も挫けそうになりました。ここでいう辛さとは、時間をうまく捻出できないことに対しての辛さです。

脱稿って原稿落とした感じがする、もしくはアイカツ本について - 隠れてていいよ

アニメだけではなく、創作など様々なところで同じ思いを持っていることが分かる。

社会人になって私はある問題と戦い続けています。アニメが殆ど見れなくなったこと、です。それまで当たり前に、沢山のアニメを見てきたのに、しんどくて辛くてアニメが見れなくなって、でも見るために、必死にもがきました。
環境が変わる、歳を重ねる……原因はいろいろあると思いますが、一度でもアニメから距離を置くのが本当に怖かったのです。離れるのは簡単だけど、戻るのはとても力がいるという強迫観念を持っていました。

「アニメ“なんか”見てる場合じゃない」 - 隠れてていいよ

定期的に書かざるを得ないぐらい、精神が追い込まれるときが定期的に来ているんだろうなと思う。

果たして自分は、いつから毎日が「かけがえのないもの」だと思うようになったのか
少なくとも10年前は、思っていませんでした。
アニメや漫画など、自分が好きなものを全力で楽しむために、学業もほどほどに日々バイトに打ち込み、
稼いだバイト代はその月で全て使い果たしては、また稼いで使い果たし、と激動、しかし楽しいソロオタクライフを過ごしていました。

契機は、間違いなく就職でした。
2012年に社会人となり、既に4年経過し、5年目に入っている今、私の生活の殆どの時間は仕事に費やされています。
人は余裕が無くなると、ここまで何もできなくなってしまうものなのかと、何度も自分を問い詰めた4年間でもありました。

10年続けたはてなダイアリーからはてなブログへ移行しました - 隠れてていいよ

ちゃんとアニメを見ようと思ったのがいつぶりだろうか、という言葉を書けてしまうくらいにはアニメをまともに見ていなかったここ数年。
クール通してという意味では、食戟のソーマ1期をもしかしたら見ていたかもしれない。特撮であれば、ニンニンジャー仮面ライダードライブがそれか。

もうそれぐらいにしか記憶が辿れないくらいには「まともに」アニメを見ていなかったわけで。
多いときには、そのクールのアニメをほぼ全部(50本以上とか)を見ていたぐらいにはアニメジャンキーだったのに。

アニメから離れることをあんなにも恐怖していたのに、いざ離れてみると、辛さとか悲しさよりも、日々の忙しさのほうが勝っているというよく分からなさ。
案外人生なんてそんなもんなんだなと達観しつつも、でもアニメへの情熱も捨てきれないという支離滅裂さ。

アニメのリハビリ、まずは『ゆるキャン△』 - 隠れてていいよ

心を病んでしまい休職している最中でも、いやだからこそなのか、改めて振り返ってアニメから離れていることを書いている。
どんなに達観したように見えても、なにか言い訳をしたくなるぐらいにはやはり取り残されたくないという気持ちが見える。

そりゃ人間だから、変化しないことなんてないと私は思っているので、変化したっていいと思う。
個人的には、社会人になったことがアニメとの距離を変える大きなきっかけとなったので、これから社会人になろうとしていたり、いま社会人1年目2年目の人に言いたいことがある。
今アニメが好きなのであれば、その気持さえ忘れずにいてくれたらいいと思う。気持ちさえ残っていれば、いつだってアニメは見れるし、楽しめる。

私は、社会人になって、アニメから少しでも離れることになったら、もう一生戻ってこれないのではないか、という恐怖感を強く持っていました。
だから、絶対に離れてやらないという強い意志を持って社会人生活に臨みました。

しかし、仕事内容にもよるだろうしどのくらい仕事に対して情熱を傾けるかにもよるだろうけれども、やっぱりしんどくなってきた。 しんどくなって、アニメから意識的にも無意識的にも離れざるを得なかったような時期が事実あった。

しかし今、こうやって生きているし、アニメを見れているし、ゾンビランドサガのおかげで毎週生かしてもらっているし(ゾンビはもう死んでますけど)、なんならこの5年間ぐらいで一番ブログを書いている。
冒頭に紹介した記事を読んで、大きく3つの反応があるだろうと思う。1つは興味がない人、1つは「俺もやっぱりそうなってしまったよな」と思う人、そして1つは「それでも突き進んでいくぜ」と思った人。どれがいいとかはないけれども、自分はなんとか突き進んでいきたい。自分が死んでも代わりはいるかも知れないけれど、自分が死んだらもう自分が楽しめなくなってしまいますからね。

一生アニメを見て幸せでいたい - 隠れてていいよ

2018年には、やはりもう心持ちは決まっていたのだと思う。
そして「冒頭に紹介した記事」とは以下の記事のことで、いみじくも本記事を書くきっかけとなったシロクマさんの記事なのである。

p-shirokuma.hatenadiary.com



振り返って今はどうか。「自分はなんとか突き進んでいきたい」と2018年に書いていたが、突き進めているのだろうか。
今でもなんとか食らいつこうとしている、気はする。ブログでいろんな感想記事をいまだに書いていることは、一つの抗いだとは思っている。

働きすぎても視野が狭くならないようにする努力をしようとしている時点でもう負けなのか?
そうは思わないと言い聞かせ続けている。そんなもんかとも思うけれども、そうじゃないと思いつつ生きている。
それはやはり「自分はなんとか突き進んでいきたい」という言葉に集約されるような気もする。なんとか、突き進んでいきたい。

画像は「自分はなんとか突き進んでいきたい、と思っている人」で生成AIに作成してもらったもの

雑記 問題解決は経験が命

毎日解決できないことが多く常に悩んでいるわけなんですが、悩むということは前に進んでいないという考え方もあり難しいところです。
悩むのではなく考えろ、というのは理屈では分かるのですが考えられないから悩んでいるとも言えるわけで。

一方で、いろんなアイディアが浮かんできたり解決までの道筋がすぐに見えたり、そういうこともあるわけです。
この違いが何かと考えると、究極的には自分の過去の経験から導き出せるかどうか、に依っていると思うわけです。

0から1を生み出す、という言葉は何もないところから天才的に閃くことを表しているよりは、それまで失敗し積んできた問題解決の数・経験値に裏付けされた確かなものだという捉え方の方が私は好きです。

翻って何を言いたいかというと、今私が悩んでいることの多くは大体経験がないことなんですよね。
多分過去同じような経験をしたことがある人にとっては、なんのことはない日常のようなものなのかもしれません。

ですが経験がないので全部1から、いや0から考えなければならないわけです。
それが物事を考えて前に進めていく楽しさである、そういうことは頭では分かっているわけなのですが、分からない道は苦難に満ちていて、頭痛もするし胃も痛いわけです。

「芸能人はカードが命!」じゃないですが、切れるカードが大いに越したことはなく、その経験を積むために今悩んでいるんだと考えると少しは気が楽になる……のかもしれません。
健康に気をつけながら前向きに行きたい、ですね。

雑記 不安を創作で消す

日曜日が憂鬱かどうか論争は永遠に解決しないと思うものの、自分の中では解決できるのではと思っている。その難易度が高いだけで。
それを難しいと言うのではないかという論もあるが。

昔、心が不安定な時期は薬を飲んでいても憂鬱だったのでそういう意味で解決ができないパターンもきっとあるのだけれども、その憂鬱な気持ちは誤解を恐れず言えば気持ちの強さ・弱さみたいなところに自分は帰結していたので、自分が気を強く持てば解決する部分が大きい。

この「気を強く持てば」という部分がことさら難しいのが厄介なところで、自分は気持ちの振れ幅が大きいので、情緒不安定である自覚がある。
ストレスが自律神経の乱れに作用し、自律神経の乱れが胃痛や頭痛に作用する。自律神経の乱れってやつは、乱れてしまうと簡単には治らないので、一時的にでも体調が悪くなる。

体を温めるとか、ちゃんとご飯を食べるとか、睡眠を取るとかはどちらかといえば中長期的な解決方法なので即座の解決は難しい。せいぜい、お風呂に浸かるのがぎりぎり即効性があるかどうか。

何が言いたいかというと、常日頃からストレスを上手く発散し、ストレスと上手く付き合っていくということが求められる。

ストレスを溜めないことは無理だということを人生経験で悟ったので、専ら上手く発散するにはというところに重点を置いて考えるようにしている。
習慣的な運動、なるべく偏らない食事、規則的な食事、休日のストレス発散方法の模索……これらは間違いなく社会経験を通して、そして一度体調を崩した経験を通して磨かれていて、生き方は多少上手くなっている気がする。

ただ、気がするのであって、実際突然気持ちが不安になることが多い。
これは性格的なところもある。例えば、人見知りの性格は徹底的に精神を蝕む。全てにおいてコミュニケーションのコストが高く、疲弊する。
世間一般的なコミュニケーションに対するコストの高さを知らないので絶対的評価になるが、少なくとも急に気分が悪くなるぐらいにはコストが高い。

どれだけ社交的になったつもりでも、それはつもりであって、ガワを被っているだけのように感じて、嘘はついていないはずなのにまるで嘘をついているように感じる。


そういった不安が発生した時、つまりまさに今だが、よく創作をする。
創作と言っても、今の自分にはブログがメインなのだが、ブログを書くことが多い。

自分の考えをまとめて、キーボードを叩いて、文字にしてどんどんと並べていくと気持ちが落ち着く。不安を創作で消している。

本当に生き方が下手だなと思う。ストレスを可能な限り溜めずに生きていきたい。
ストレスの充填と発散の割合が悪すぎて、どうやっても徐々にマイナスになっていく感じ。


ただ、救われるのはこうやって文章に起こしていくことで不安は多少紛れるということ。
ブログを書く、文章を残す、考えをまとめる……そういったことを短くない期間続けてきたことでストレスなくできる自分には感謝をしたい。
創作で不安を消すって健全ですか?


何となく急に月のワルツを聞きたくなったので、最後に貼って終わります。気分を上げていきたい。


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2022年振り返りと2023年の抱負

いつもブログをご覧になってくださっている皆様、そして初めましての皆様、改めまして2022年はありがとうございました。
気づけば2023年を迎えていて、相変わらず1年が経つのは早いと感じます。

2022年は自分にとって激動の1年でした。様々の環境変化と新しい出会いは新鮮で楽しく、冗談抜きで若返った気持ちになりました。
そんな2022年を振り返り、そして2023年の抱負を述べたいと思います。
ぜひ新年の戯言にお付き合いください。

2022年の振り返り

昨年掲げた抱負の達成度を振り返ることを2022年の振り返りにしたいと思います。

  • 触れた作品の感想を残すようにする
  • エッセイ的なものでもいいから、何かしら創作活動するようにする
  • 読書する習慣を作る
2022年の抱負 - 隠れてていいよ
触れた作品の感想を残すようにする

達成できたと思います。
昨年書いたブログ記事は28記事で、そのうち何かしら作品の感想記事は21記事でした。
2020年は13記事、2021年は8記事だったことを考えると定量的にも大きな成果だと思います。

ブログのように、ある程度まとまった形で文章を書く行為は体力を使うので、その意味で2022年は体調が良かったのだと思います。
しんどいと、まず書く気にならないし書いたとしても内容が暗いものになって、とても作品に対して顔向けができない内容になってしまうので書けないのです。
昨年の記事はどれも力を込めてしっかりと書けていると思います。これは大きな成果だと自分を褒めてあげたいです。

エッセイ的なものでもいいから、何かしら創作活動するようにする

これは、達成できませんでした。
創作の優先順位は現在自分の中で圧倒的1位ではないのですが、それでも急にモチベーションが上がることがあります。ムラがあるというやつです。

昨年は読書する中で短編を比較的多く読みましたが、その影響で、短いお話も良いなという気持ちも出てきました
(もちろん短編連作のものも多いので、だから短編で良いんだというような傲慢さは持っていません)。
抱負の方で書きますが、そういった方面での目標設定にしようかと考えています。

読書する習慣を作る

達成できたと思います。
今は昔のように読書記録をつけていないので正確な冊数は出せないのですが、出さなくても分かるくらいこれまでよりも読めました。
また、抱負は習慣を作るなので、必ずしも読んだ冊数が多ければよいというわけではありませんが、仕事を変えて出社するようになったので通勤時間を読書に充てられるようになりました。
加えて空いた時間、特に寝る前はスマホを触るのではなく読書するようにしたので、そういう意味でも達成できたかなと思います。

昨年は、村上春樹さんを始めとしてこれまで読んでこなかった名作を読み進められたのと、比較的カロリーが高めの本を読めましたので読書力が少しは向上したような気はします。

2023年の抱負

昨年同様にプライベートに関わりすぎる内容は割愛しますが、それ以外について抱負を書き記したいと思います。

  • 自信を持つ
  • 読書習慣を定着させる
  • 少しでも創作をする
自信を持つ

偶然ではありますが、昨年は仕事でもプライベートでも「もっと自信を持っていい」というようなことを言われました。

仕事については、もっと自信を持って仕事をしてほしいという激励の意味も込めた内容でした。
これまでやってこなかった事業・新しい環境・新しい仕事内容で、分からないことも多く、
自分で考えた答えに対して自身を持てないことが多かったのですが見事に見抜かれたのが昨年でした。
理屈というよりは感情的な問題で、どういった行動で答えを導き出していくのかが求められていると感じました。


プライベートについてもシチュエーションは違えど殆ど同じ内容でした。
自信がないと、結局話す言葉や態度がへりくだるようになって、結果的に聞く相手にも気を使わせてしまうことが往々にしてあります。
傲慢になれとは思いませんが、いい意味で素直になることが重要だとあらためて感じた昨年でした。

なので、今年は自信を持って進んでいけるように考え方や行動を変えようと思います。
定量的な指標が無いのですが、まさに気持ちの問題ではあると思うので、常に自問自答しながら進んでいきたいと思います。

読書習慣を定着させる

そもそも定着したから習慣なのではと思われるかもしれませんが、定着度合いにも差があると個人的には思っています。
一番定着したと感じるのは「それをやらないと気持ち悪くなる」です。現状は「少し気持ちが悪い」程度に収まっています。

ただ、おそらく達成できる予感があります。というのも昨年の読書体験から、あらためて読書の面白さを思い出したり新しく発見したりしたからです。
いくつかあります。

  • やはり小説が好きなこと
  • やはりファンタジーが面白いこと
  • 海外小説が思いの外、肌に合うこと
  • 幻想文学というジャンルを見つけたこと
  • 名作はやはり名作たる所以があること

何より、読書は夢中になれること。先が知りたくて夢中になってページをめくっていく感覚、これがなにものにも変えられない体験なんだなとあらためて感じました。

そして自分の原点というか、ブログをやる意味を思い出したりもしました。
記憶に残しておきたいのはもちろんですが、何より自分が良いと思ったものを周りにも知ってもらいたいという欲求です。
なので本を読んだらブログを書いて、想いを伝えられるようにしたいと思っています。

少しでも創作をする

創作に関しては、自分を追い詰めすぎないことを念頭に今年は頑張っていきたいと思います。
楽しくできることに越したことはないという精神で進めます。

創作を頑張る必要がそもそもあるのか? という原始的な問いに対しては、まだまだYesと答えたいというのが正直な気持ちです。
気持ちも忘れてしまうと、諦めに近づいてしまうためそれは避けたいのです。

短ければ書ける、というわけでは必ずしも無いのですが、まずは少しずつ短めのものでも書いていきたいと思っています。

終わりに

歳を重ねるごとに1年が早く感じるようになる、これはいつの時代も言われることですが、だからこそ新しいことを始めたり衰えを進行させないように抗ったりが重要なのかなと感じた昨年でした。
仕事も変わり、社会人になってから過去一番健康的な生活を送ることができました。とにかく健康が大事、健康じゃないと何も始められないと強く感じた2022年でした。

2023年も引き続き健康でいることを前提に、様々なことに前向きに取り組んでいければと思っています。
皆様、今年もよろしくお願いいたします。


追伸:昨年の9月で、このブログを始めてから16年経っていたようです。何事も続けることの大事さをあらためて感じました

悲劇のヒロイン思考に陥ると辛い

悲劇のヒロイン思考とは、その名の通り悲劇のヒロインのような思考のことです。
悲劇のヒロインには様々な定義があると思いますが、自分に発生している辛いことや悲しいことや立ち向かわないといけないことが、
運命によって発生しているものだと感じられる、というように私は考えています。

運命によって発生しているのであるから、その発生原因について考えすぎても仕方がないとすら思えてきてしまうという作用もあります。
同時に、その問題がまるで世界のすべてだと思うように感じ、いわば一人セカイ系の中に取り込まれてしまうような状態です。

悲劇のヒロイン思考に陥りやすいときというのは、多くの場合何かしらの相手がいる場合があります。
その相手は、自分のことをどう思っているのか皆目見当がつかない。しかし自分の思いだけは募る。
そういった場合「あぁなぜ自分はこんなに悩んでいるのだろう。きっと相手は何も悩んでいないのだろう」という思考になりやすく、
相手が居ないと解決できないのにもやもやだけは募り、勝手に自分自身は悪くない、そうセカイが悪いのだ、という思考になりやすいのです。

こうなったときの解決法はいくつかあります。まず、悩んでいることは些細な事であると冷静に理解することです。
それができたら簡単ではと思いますが、しかしこの悲劇のヒロイン思考に陥るときはとても極論の状態に陥っている事が多いので、
実は案外簡単に覆せることが多いのです。

例えば、それについて徹底的に考えないようにルール作りを行い、それ以外のところの優先順位を上げていき、
それの優先順位を最下位に持っていくことで無理矢理に距離を置くという方法。
特に「それ以外」の部分が、それなりに成長や実感を持てるようなものである場合、容易に抜け出しやすいです。

悲劇のヒロインになりきることはとても快感なのですが、抜け出せないと永遠に悩み続けるという苦痛が待っているので、
ぜひ早急に抜け出してください。

ストレスからの開放があるかもしれません

職業を変える活動をしていたのですが、ほぼゴールが見えました。
この土日は、多分この数年の中で一番何も考えずに迎えられた土日な気がします。
今飲んでいる薬が、あまりお酒を飲まないでくださいねって書いてあるのでちゃんと飲まないようにしていたのですが、流石に久々に飲みました。

まだあまり実感がなくて、嬉しいよりも「夢じゃないよね」的な感じの感覚のほうが強い感じっていうのでしょうか。感が多い。
多分周りからその話をされるようになってから初めて実感するのかなと思います。
でも、もう少し実感したかったので、このブログを書いたりしています。

ストレスがあるからストレスを解消したいためにストレスを解消することをしたいのにストレスでできない、みたいな地獄の日々を過ごしていたこの数年ですが、新たな一歩を踏み出せそうです。


活動をしていて感じたのは、この数年、如何に自分が試されていなかったのかということでした。
自分がこれまでやってきたことを説明するだけじゃなくて、当然相手から質問が来るわけなんですけども、
この質問は多くの場合は試されているわけで、ストレスと緊張が一気に襲ってくる感じでした。

自信を持って答えられるということと、ストレスや緊張があることは並列して存在するので、どんなに面接のために準備をしてもしんどさは消えませんでした。
しかし、なんだかんだ2桁も社会人生活やってると、それなりに話せたり、後は活動の進め方に仕事のやり方みたいなものを活かせるんだなぁと思った次第です。

また、これも人並みではありますが、活動を進める中で自分がやりたかったことというか、性に合うんだろうということが改めて分かってきて、
背伸びはせず、これまでの経験も活かせそうな仕事内容になりそうな予感がしています。まだ分からんですが。

このご時世なので、Web面接が基本なのはとても助かりました。
何より仕事の調整のしやすさが抜群なわけです。私は今在宅ワークが主なので、基本MTGとか入ってなければ時間調整ができたのでめちゃくちゃ楽でした。
スーツとかずいぶん着ておらずくたびれていたのですが、画面越しだとそこまでわからないので改めて買う必要とかもなくて、めちゃめちゃ助かりました。


なお「入社してからしばらくは慣れるために活動が少なくなります」的なことがよくありますが、最近はネット活動がほぼないに等しいので、そこまで変わらないと思います。
もう少し事が運んだらまたブログを書くかもしれませんが、とりあえず近況報告的なことを書いておきました。まる。

1日働き終わったら何もする気が起きなくて寝るしかないという生活は体に悪すぎる

少し強めにストレスを感じると、頭の右後ろあたりがズキズキしてきて、集中力が切れてきて何もできなくなることがあるけれども、
普通はそんなことないらしいので、昔はとても悩んでいましたが、今はそういうもんだなと納得ができるのでよいのですが、
果たしてそれが続く環境に居続けることが幸せなのかというと多分そうじゃないはずで、
でも今までは面倒くさいとかそういう気持ちのほうが勝っていたのですが、
客観的に考えるとやっぱり環境を変えるのが良いはずで、
そんなことを会社に勤めて10年で気づくわけです。


人間の順応力ってすごいなと。
どんなに辛いことがあっても、大体慣れてしまう。
なんだけども、それにも限度があるということも理解できて良かったなと。
それはそれで、経験しないと学べなかったことで、一度身体を壊すとそこは自分なりのやり方というか、
手の抜き方をようやく覚えられるというか。

それでもどんなに力を抜こうとしても、生来の性格・考え方はそう簡単に直らないというか。
やっぱりどこかで気を張ってしまって、ストレスを溜めてしまって、体調を崩してしまうという感じで、
そこはもう仕方がないのだけれども、でもそれと付き合っていくにはもう年齢も若くないし、
会社よりも、そろそろ自分のことの方をちゃんと考えてもいいなと思うというか。

端的に、1日働き終わったら何もする気が起きなくて寝るしかないという生活は体に悪すぎる。

しんどいから辞めるという選択肢

もう2月も終わろうかという祝日の夜、皆様いかがお過ごしか。
前回の記事で、おそらく1月から2月中くらいで片付く仕事があると書いていたが、その仕事は概ね完了した。

とても素敵なことに、辞めるつもりで仕事をし始めたら思いの外サクサクと進めることができて、その点は良かった。
別にそれ以外の悪い点はないのだが、転職のことを頭のどこかでずっと考え続けなければならなかったことは強いていうと悪いことだったかもしれない。
とはいえ、仕事を終えたら次の仕事が降ってくるのが常であり、また重そうな仕事がそろそろ始まりそうで憂鬱である。

転職しようと決めても、結局本当の心の底の深いところから転職しようと考えているのか、というのは常に考えてしまう。
なので、次の土日に時間を取って改めて転職について考えた上で、以前一度利用した転職エージェントに連絡してみようと考えている。

なぜ今の仕事を辞めたいのか。
素直な気持ちは、今の仕事そして会社の状況に疲れたからである。
働いていて、疲れしか出てこないので、ただただ疲弊していくだけだからである。
これをそのまま転職先に伝えることはないが、とはいえ今の会社の状況的にはそのまま伝えても大丈夫ですよと転職エージェントの方には言われそうな気はする。

前回退職を考えたときの辞めたい理由は、長時間労働でただただ疲弊していたからであった。
そのことをエージェントに伝えると「それは理由にしていいですよ」と強く言われた。それほど働きすぎていたのだ。

今回のケースも、どちらかというと個人の力ではどうにもならないことが原因で発生しているため、なんとなく同じように言われる可能性が高い気がする。
ただ例えそれが真実でどうしようもない現実だったとしても、いわゆるマイナス思考の転職というか、ネガティブな転職として捉えられる部類である。
そして、世の転職ノウハウやもちろん転職エージェントにも言われるのだが、マイナスの転職理由は避けたほうが良いというものがある。

上述したように例外的なこともたくさんあるが、自分が採用の立場だったとしても言わんとしていることは分かる。
ただ、だからといって「イケイケに仕事をしていきたいのです」という理由ではないので、現実的なポジティブな理由をひねり出すことになる。
ひねり出すと言ってもウソをつくわけではない。間違ってはいないし、どちらかといえばイエスな理由をつけるのである。

ただし往々にして、というか自分はだが、そんな理由をつけたものは薄っぺらくなる傾向にある。
なので、今回の転職はなるべく可能な限り本音ベースで進めてはみたい。
転職というイベントは少なからず人生の中ではそれなりに大きな選択肢ではあるものの、なるようになる気もするから不思議である。

前回転職活動をしていたときは、そういう余裕がまったくなかった。ただただ今の会社から逃げ出したかったから盲目的に活動を行っていた節がある。
同じ轍は踏まぬよう、いい意味で前向きに転職活動を進め、そして終えられたらと思う。

気分が悪くなることを解消するために

前回の続き。
thun2.hatenablog.jp


前回の結論として

結局どうするかというと、なるべく感情を動かさないようにして、ストレスを溜めないように前に進むしかないのである。

というようにそれらしいことは書いたけれども、ただ待っていても好転するどころかストレスがじわじわと体を蝕んできて、結果的に体調をどんどん悪くしていくことが容易に想像できる。
辛い状況を改善するための方法として2つある。自分が変わるか環境を変えるか、というやつ。

今回の話は、前者に限界を感じ後者を行うということになる。つまり転職である。
社内転職のような、上記の間のような方法もあるにはあるが現在の自身の状況的には辛さはさほど変わらない・改善しないという気がする。


これまでの経験上、辛いことしか考えられないときの転職は不幸になる確率が上がる。なので、よくも悪くも切りが良いところで決断したほうが良いと考えている。
辞めるとした場合、どういう方法があるか。

  • とにかく今すぐ辞めると伝える
  • 転職活動中に伝える
  • 転職先が決まったら伝える
  • 転職が決まらなくても辞める

個人的なベストは、転職活動を始めつつ決まらなくても辞める日を決めておく、というもの(会社に決まっていないことを伝えるかどうかはケースバイケース)。
ただ、本気で職が決まらなくて無職期間を作るのは今の自分的には経済的リスクが高すぎるので、可能な限り転職希望日を決めた上で本気で転職活動するというのがベターだと感じている。

気持ちよく転職するためそして今のしんどさを軽減するために、最後の仕事をきちんと終えたら転職活動を始めようと思う。
おそらく1月から2月中くらいで片付く仕事が今あるので、その仕事を終えたら転職活動を始める、と決めようと思う。
そうすればしんどいと思っているその仕事も、終わったら転職活動ができるんだというモチベーションを上げるために利用することができるとも言える。

もう日付が変わって月曜だけれども、月曜から胃を痛めるよりは、仕事を終わらせて転職活動しようと前向きになる方がきっと良いはず、と信じて頑張ろうと思う。

気分が悪くなること

仕事中気分が良くなくて、そのまま続けても集中できない状態だったので多少早めに仕事を終わったのだけれども、
気分が悪くなった原因はまた一人退職する人がいることが分かったからだったのかもしれない。

かもしれないと書いているのは100%そうであると確信が持てないからであるけれども、こんな文章を書かざるを得ない状態ということは多分それが原因なのだろうと思う。
また一人と退職することによって、組織という体を保つことに多量の工数を割き責任を追うべき範囲が増えること、そのことを思うと、ただでさえ疲弊している心と体にダメージが来たのだと思う。

本来、同僚が退職することに対しては前向きでいたいと考えているし昔からずっとそういうスタンスで来ていたのだけれども、
現在の会社の、組織の状況から考えれば大きなショックを受けてしまうというのはもう仕方がないことのように思う。それだけ今、個人に対する負担が重いのである。

これまで100人で見ていたものを80人で見ろと言われると辛いし、それが50人になればもっと辛いし、10人で見ろと言われれば相当に辛いという単純な話でもある。
誰かが休んだらきつくなるというのはまぁどこの会社でも同じことであろうが、いざ実際自分の身にそれが降りかかると案外辛いものなのである。
自分が休むと周りが辛くなるという状況も、同様に精神衛生上良くない。休むことに対して負い目を追わなければならない状態は、どんな理由であってもやはり辛いものである。

バス係数と呼ばれる、ようはその人が死んだら立ち行かなくなる指標として使われる数字だが、今や多くの分野で皆で持ち寄ることでなんとか1を切らないようにしているというのが実情なのだ。
そんな中でまた一人退職するという話を聞けばそれは、もう辛いのである。

そんなに辛いなら辞めれば良いというのは事実である一方で、昔よりも守るべきものが増えたことも事実で、身動きが取りづらくなっているというのはもう仕方がないことではあると思う。
仕方がないから受け入れるのかというのは正論としては当然理解できるけれども、「正論が人をキレさせることはいくらでもありますけれど人を救った例は有史以来一度も存在しませんわ!!」*1という名言があるように、当事者達にとってはあまり意味がないものであることが多いのである。

結局どうするかというと、なるべく感情を動かさないようにして、ストレスを溜めないように前に進むしかないのである。

2022年の抱負

2021年が終わり、2022年となりました。
皆様いかがお過ごしでしょうか。

2021年はいつの間にか終わっていました。
勤めている会社では色々とあって、まさに激動という感じで働いておりました。
相変わらず心は辛く、また胃薬に手を出し始めなければならないところまで行きましたが、
そういった薬も含めて、一度心を壊してからはコントロールが上手くできるようになったと感じる1年でもありました。

エンジニア職ということもあり、コロナを期に会社は基本テレワークとなり、日々自宅で仕事をしております。
元々PCに向かって粛々と作業をすることに苦痛を感じない性分なのと、なんだかんだ二桁年近く働いていると、
働くということに良くも悪くも慣れてくるというか。出社して直接顔を合わせずとも案外仕事ができるもんだと感じたところではあります。

ただ、そうして刺激なく目標もなくただ働いているということは、案外に飽きてくるということもようやく分かってきました。
同時に、自分は将来のことを全く考えられない性分であることも改めて感じました。
ただ、年齢も30後半に差し掛かろうとしている中で、やはりいろいろと思うところはあります。

このまま何もせず生きていくと、多分数年後くらいから、何者にも慣れない自分に対して吐き気しかしなくなると思います。
いや、もう既に時々そういった兆候はあるのですが、鈍感になろうと心がけているのか、時々で済んでいるのです。
でもこうやってブログを書きながら胃が痛いのです。胃薬を少し前に飲んでいるはずなのですが、あんまり効いていない気がします。


さて、2022年となりましたが、上記のような心境の変化もあり、久々にちゃんと抱負を考えてみようと思ったのです。
やらない善よりやる偽善、ではないですが、言わないでやるよりは言っておいてやらないほうがまだマシと言うか、
つまりちゃんと言葉にしておかないともう何も進まなくて更に悪循環に陥ってしまうだろうという予感しかしないというか。

というところで、プライベートに関わることは省いた上で、以下に抱負を書いてみたいと思います。具体的な方法までは触れません。

  • 触れた作品の感想を残すようにする
  • エッセイ的なものでもいいから、何かしら創作活動するようにする
  • 読書する習慣を作る

触れた作品の感想を残すようにする

2021年を振り返ると、なんとこのブログは8記事しか書いていないことが分かりました。
ちなみに2020年は13記事で、ここ数年相当に記事を書いていないことが分かります。
なお最も記事を書いていたのは2007年で、年間記事数が1000を超えていました。今考えると頭おかしい数です。

ただこれには理由があって、2006年から数年は自分がアニメというものに死ぬほどハマっていた時期で、放送されているアニメをほぼ全て見て、ほぼ全て感想を書いていたという異常な状態だったのです
(これが正常な人がいるのはもちろん知っていますが)。
反対にここ数年記事が少ないのは、もちろんそもそもブログを書いていないからということもあるのですが、作品に触れている数が圧倒的に少ないということも挙げられます。

ただ、実際触れている作品数と比較すれば明らかにブログの記事数は少ないので、これは明らかにブログを書いていないからだと言えます。
別にブログ書かなくていいじゃないって思われるかもしれないのですが、改めて感じるのは、ブログに残すすなわちアウトプットしておくと、
自分の中でその作品に対して記憶を残しておくことができるということです。

あの時、あの作品に対してどういう気持ちだったのかを後から思い返すのは結構難易度が高い作業で、ブログを読み返すことで当時の足跡を辿れるというのは色んな意味で有用なのです。

有用だって分かっているのになぜやっていないのかというと、やはりただただモチベーションが上がらなかったからにほかなりません。
でも、ただただメリットしかないことをやらないのは本当に勿体ないと思っています。
なので、見る作品数を増やすとかそういう話ではなく、触れた作品が会った場合は、メモ程度でもいいからなるべくブログを書いて残しておこうと思います。

エッセイ的なものでもいいから、何かしら創作活動するようにする

やはり、何かしら作品を紡いでいたいという気持ちがあります。壮大なものでなくてもいいから。
なぜかというと、死にたくなるから。

何者にもなれないと感じる理由は何もしていないから。何かを少しでもすることでその気持を薄めさせないと今後生きていけないような気がするから、やはり何かしら創作活動は続けていきたいと改めて感じています。エッセイのような独白のようなものでも良いから、何かしら自分で言葉を生み出したりして表現していきたいと改めて強く感じています。

読書する習慣を作る

ラノベでも何でも良いのですが、もっと読書をしたいと考えています。
理由はいくつかあります。

  • 単純にインプット量を増やしたいから
  • 集中力を養いたいから

年齢を重ねるに連れ、何かを学ぶということに対して億劫になってきています。
大型の本屋に行って、なにか面白い本がないかなぁとぶらぶらして結局何も買わずに帰路につくということを昨年何度やったことか。
昔はもう少し興味があるものが多く、また学ぼうとする意欲が強かった気がします。

残念ながら自分は読書をする習慣まではありません。
好きなラノベは新刊が出るたびに買っていますし、アニメから原作を知って一気読みしたりとかそういうレベルでは読んでいますが、漫画を除くと年間100冊どころか30冊も読んでいないのではと思います。
読書をしないこと=悪いことではありませんが、読書をしないと自分自身がどんどん老いていく感覚がここ最近強くなってきています。
分かっているのであればやりましょうという話で、抱負にします。

なお後者、集中力を養いたいからについては、こちらも割と深刻な話で、ここ最近は本当に集中力が続かないのです。
仕事にしろプライベートにしろ、すぐに集中力が切れる。別のことを始めたくなる。

これは本当に、人生の中で最も効率の悪い事の一つなんだろうと思うのに直せない。
こうやって久々にブログを書いているときは集中できているので、やはり読書にしろなんにしろ熱中してやるということができなくなっているのではと思う。

とはいえ、読書は好きで、読書している最中はとても集中できるので、そういう意味で読書を習慣にすることが集中力を取り戻す一つのきっかけにならないかという打算です。


終わりに

他にも細かい抱負は色々あるのですが、まずは上記は頑張っていってみようかなと。
生きるのって難しいなぁと毎年思います。

皆様の2022年も良いものになることを祈っています。

お手軽に感想と自称する文章を量産する方法

note.com
teramat.hatenablog.com



上記事をリスペクトして。

「批評」って言葉を聞くだけでアレルギーが出そうになる方向けに、アニメの感想を書く方法を書いみようと思いました。
もう10年以上アニメの感想を書いているはずなのに、未だに「批評」というものに対して深く入り込もうとしないことがバレるので嫌だったのですが、こう、やっぱり鼻につくじゃないですか。誰かが書いた文章がなんか気に入らなかったり、思うところがあるからこんな記事書いちゃうんですよね。


今回は分かりやすくするために、アニメの話数単位での感想を例に上げてみます。
この方法で書いた感想記事もアップしているので、この記事を読んでいただいてからそちらを読むと何かが分かるかもしれません(分からないかもしれません)。

先に結論を書いておくと、感想の書き方なんて自由なので、この方法でなければならないなんて絶対に思わないてください。
そういう意味でこんな記事なんて書きたくなかったのですが、冒頭に書いたような気持ちになってしまったので仕方ないね。
「量産」なんて言葉も使いたくないです。


目次


1. まずは感想を書く対象を決めよう

もし今見ているアニメがあるのならば、それで良いでしょう。無ければ無理にひねり出す必要はありません。
感想を書きたくなる作品に出会うと、自然と、一行でも書きたくなるものです。Twitterにつぶやくのだって立派な感想ですし。

とはいえある程度まとまった感想を書きたいなと思ったら、アニメを見る時に手元に何かしらメモを残せるようにしておきましょう。
自分の気持ちが高ぶったり、思わず突っ込んでしまったり、笑ったり怒ったりしたシーンがあったら、書き留めておきます。
シーンを詳細に描写しても良いですが、とりあえず自分の思ったことをそのまま書きましょう。
メモはTwitterでつぶやいたものでも構いません。アニメ実況しているのであれば、それがまさにあなたの感情高ぶりメモになるでしょう。

具体例:『ゾンビランドサガ リベンジ』1話「グッドモーニングリターンズ SAGA」

あいちゃーん
シュールな感じめっちゃ好き
ベントー的な感じもある
1期の1話を超えられるか

川口ひろし
しょぼぼぼぼーん
ゾンビとしてバレなくても、アイドルとしてばれないのか?

あいちゃんはやっぱりパソコン

ちゃんちゃんって終わればOK

でも、これを引きずって2話以降やるのはきつくない?

はい、というわけで、みたいな感じでOKかも?
Cでもってきたか?


2. 「絶対にこれだけは外せない、言いたいこと」を決めよう

先程書いたメモを、そのまま書いても伝わらないです。メモですから。
なのでここからはそれを文章に起こしてある程度まとめていく作業が必要です。

その時、ざっくりとで良いので書こうと思っている感想の骨組みを考えます。
といっても難しく考える必要はなくて、まずは「絶対にこれだけは外せない、言いたいこと」を決めちゃいます。

この「絶対に言いたいこと」は、できれば1つ、多くても2つくらいまでにしておくことが望ましいです。
というのも、強い思いを持ったものが複数あると言いたいことが薄まってしまうからです。
3つ以上になるときは、記事を分けることも念頭に置きましょう。

言いたいことが決まれば、次は構成です。

構成テンプレート

今回は典型的な、1つもしくは2つあるケースのテンプレートを例示します。

■ 1つだった場合
1. はじめに
2. 前緩衝材(※)
3. 絶対に話したいこと
4. 後緩衝材(※)
5. 終わりに

具体例:
前後緩衝材を置かなかったパターン: アニメ『神達に拾われた男』 リョウマのエリアリアに対する恋愛感情はガチなのか - 隠れてていいよ
前緩衝材だけ置いたパターン: 西尾維新『デリバリールーム』 所感 - 隠れてていいよ
後緩衝材だけ置いたパターン: ライトノベル『りゅうおうのおしごと!』 クズ竜王、ここに極まれり - 隠れてていいよ


■ 2つだった場合
1. はじめに
2. 絶対に話したいこと1
3. 絶対に話したいこと2
4. 終わりに

具体例:
アニメ『魔王学院の不適合者』 ラノベ原作のアニメ化としては近年まれに見る素晴らしさだった - 隠れてていいよ
漫画『片喰と黄金』感想 人との出会いが次の出会いのきっかけになる - 隠れてていいよ


「絶対に話したいこと」が比較的ポジティブかネガティブか、によって構成を変えたほうがうまくいくことがあります。

・比較的ポジティブ
前向きな話は読んでいて悪い気分にはならないので、緩衝材は設けず伝えたいことだけ書いても良いでしょう。
・比較的ネガティブ
後ろ向きな話は逆に読みたくなくなることもあるので、前に緩衝材を挟んでも良いでしょう。
ただし、とにかく伝えたい内容を最初に持ってきたいという強い意志があるのであればもちろん不要です。
また読後感を悪くしすぎないために、場合によっては後緩衝材も挟みましょう。

今回の私のケースでは「お涙頂戴復活劇は斜め上ではなかった」を、絶対に言いたいこととして1つ決めました。

3. 絶対に話したいことをベースに、サブ的な内容を膨らませる

私が選んだ「絶対に話したいこと」は比較的ネガティブなため、前後緩衝材を入れることにします。

今回は以下のようにすることを決めました。
・前緩衝材 -> 社歌
・後緩衝材 -> 空に向かってカメラが上がる最後のシーン


よって構成は以下のようになります。
1. はじめに(作品のざっくりとした紹介含む)
2. 前緩衝材(社歌)
3. 絶対に話したいこと(お涙頂戴復活劇は斜め上ではなかった)
4. 後緩衝材(空に向かってカメラが上がる最後のシーン)
5. 終わりに


ここまでできたら、後は実際に書いていきましょう。
このテンプレートはあくまでテンプレートなので、書いているうちにより良い物が出てきたら変えていっても問題ありません。
ただ、軸があるのと無いのとでは書く安心感が違いますので、執筆速度にも寄与します。

4. タイトルを考えよう

記事を書き終わったら、最後にタイトルを確定させます。
タイトルは最初に決めてもよいのですが、内容が途中で変わることはざらなので、
「絶対に言いたいこと」を書いている途中ぐらいに仮決めした後、完成後に文章を推敲している最中ぐらいに確定させるようにしています。

後は何度も推敲です。

5. 完成

そうやって完成した記事が以下となります。
thun2.hatenablog.jp


こういう説明を聞いた後だと、なんか作られた感のある文章に見えるかもしれませんが、書いた内容自体に嘘はないのでご安心ください。
こういうことを考えながら書いたらこんな記事になるんだなって思ってもらえたらと。


FAQ: 仮想敵を作る必要はありますか?

必ずしも必要ありません。ただ、誰かの記事を読んで納得できなかったから自分で反論してやるぜ、みたいなパターンとかはその限りではありません。
その場合、仮想ではなくもう敵な気がしないでもありませんが、昨日の敵は今日の友(一方的な敵は友になるのかどうかはまた別の話)。

後、仮想敵を作り出すと疲れるのと、一度味をしめるとそれしかできなくなる恐れがあります。
とは言え仮想敵を作りそれに反論するような内容は、議論が戦わされるので読んでいる方としては面白いです。
あぁ、この人ちゃんと考えているんだなって思っちゃいます。

健全にやっているうちは全く問題ないと思います。
そもそも仮想敵なんてものは人を想像しますが、実際には考え方みたいなものなので。
自分の考え方を展開するための下地として利用していることが多いわけです。

FAQ: 多くの人の目を引くように、タイトルや内容は誇張して、センセーショナルな感じにしたほうが良いですか?

タイトルはセンセーショナルな、記事の内容とは多少かけ離れている方がPVは稼ぎやすいと思います。
もちろん戦略的なタイトル決めは、本だろうがネット記事だろうがとても重要なことだと思います。
だから、自由にタイトルをつければ良いと思います。
ただ「この記事を読んだ人を後悔させたくない」という気持ちは忘れないほうが良いと思います。

内容も同様です。
昔、お互いのブログ記事を評価しようみたいな企画に参加させてもらった時に、某ニュースサイトの中の人から感想を頂いたことがあるんですが、私の記事には「特徴がない」と言われたことを覚えています。
特筆するべきところがないから、取り上げにくい、と。

それを聞いた時、ショックを受けました。ただ、一方で事実だと冷静に受け止めていました。
今回の、私の感想の書き方みたいなものを見てそう思った方もいらっしゃるでしょう。ヌルい、と。

仮想敵がないわけではありません。例えば、今回書いた記事なら「ゾンビランドサガの2期は無条件に受け入れられるものだ」みたいなものです。
それに対して「私はちょっとそうは思わなかった」という反論を行っているわけですが、明確に仮想敵を記載していませんし、反論しているわけではありません。
ただ、自分の思ったことを書いているだけなので。
しかし結果的にできあがった文章は「ゾンビランドサガ2期1話を、ちょっとイマイチだったなぁって言っているだけ」なんです、ものすごく冷静に捉えればですが。

多くの人に取り上げてもらえれば自分の伝えたいことやアニメの良さを伝えられるから、多少煽ったり嘘をついてでも、タイトルや内容をもっと刺激的なものにしたほうが良いと思ったことはありましたが、それは自分の性格に合っていなかったのでやめました。
そもそも本質的には、刺激的な内容ではなくても良い文章は取り上げられるし、多くの人の目にとまるのだと思います。

だから、結論的にはやはり自分の文章力がまだまだ足りていないのです。ただの遊びでやっていると思われても仕方がないわけです。
結局、批評的な文章にずっと馴染めてこなかった理由は、そのあたりにあると思っています。
自分にはできないことをやっている、そういうところに惹かれたのだろうと。

FAQ: 発想を飛躍させないんですか?

させたいです。時々、信じられないほどのアイディアが、アニメを見ていて生まれることがあります。
素晴らしい批評は、「そんな考え方があったのか」という、その作品に対する理解度を段違いに上げてくれます。

初めて出した同人誌の冒頭で、以下のような記載をしていましたが、この気持ちは今も変わりません。

素晴らしい批評・評論に出会うと素直に「すごい」と声に出していまいます。一体どの部分を「すごい」と思うのかというと、それは「補助線」を引いてもらえる点です。補助線とは、物事の理解を助ける考え方、別視点などと定義しています。作品を理解しようとする時、自分では絶対に考えつかなかったような補助線を示してくれる、これが批評・評論の素晴らしい点だと私は思っています。

とは言え同時に、以下のようなことも書いていて、この気持ちも本当です。

(略)
だけどネットの世界には、誤解を恐れず言えば、反論の余地を残さないような文章が溢れている、「批評・評論っぽい」文章が多い……上から目線に聞こえるかもしれませんが、私にとってはそう感じるものが多かったのです。
(略)
アニメってこんなにも面白くて楽しめるものなのに、なぜ皆は、わざわざ難しい言葉を使って理解を妨げるようなことをしているのか、なぜもっとアニメの純粋な楽しさ、感じたことを他人に伝えようとしたいのか、という気持ちが次第に膨れ上がっていったのです。


この同人誌を出したのが約10年前です。
この10年、ほんと成長してないなと改めて思いました。良くも悪くも。

ちなみにアニメの批評を書く人の中で、冒頭紹介した記事のてらまっとさんはリアルで数回お会いしたことがありますが、段違いで発想のセンスがある方でした(謎の上から目線)。
数えられるほどぐらいしかお会いしたことが無いのにそう思うのですから、当時からとんでもなくすごい人だと思っていました。でも、てらまっとさんに関わらずアニメ批評関連の同人誌なども目を通すことが少なくなったので、語る資格もありません。
もし次にコミケが開催されることがあれば、久々に参加しても良いかなと思ったりしました。

一生アニメを見て幸せでいたい

p-shirokuma.hatenadiary.com


酔っ払っている勢いで書く記事としては、ゾンビランドサガではなく、こういう記事のほうがいい。
以下引用は、全て上記記事から。

若き愛好家の「一生アニメを観て幸せ」という言葉は、若さという前提に支えられていることを。熟慮するまでもなく「一生アニメを観て幸せ」と言えてしまう能天気さじたいが若さの証であり、私や私と同世代の愛好家、そして愛好家とは言えなくなってしまった連中が喪ってしまったものであることを。
 
 
 本気で「一生アニメを観て幸せ」で居続けるためには、幾つもの条件をクリアしていく必要がある。

卑怯な返しをするとすると、私は「俺は一生アニメを観ていれば幸せ」と思ったことはない。一生アニメを見ているだろうな、と思ったことはある。
一生アニメを楽しめるだろうな、とも思ったこともある。

それは多分、自分は萌えヲタだという自覚が昔からあったから。萌えヲタという言葉自体がもう死語みたいな気がするけれど、ようは二次元の可愛い女の子が好きということ。
アニメを始めとする、可愛い女の子を感じることができる媒体にずっと触れていたいと強く思っていました。つまり「俺は一生可愛い女の子に触れていれば幸せ」とずっと思っている。

・第一に、アニメを観る自分自身の心が変わっていくから、それに適応しなければならない。
(略)
だから、キャラクターへの感情移入に頼ったかたちでアニメを楽しんでいる人は、そうでないアングルから楽しむ方法を確立しない限り、思春期の終わりで「一生アニメを観て幸せ」の難易度が跳ね上がる。

((略)は筆者)
「アニメを観る自分自身の心が変わっていく」には激しく同意。しかし、アニメに限らず、年齢や立場によって見方が変わっていくのは世の常なので、ここはあまり絶望しなくてもいいと思う。
ライトノベルティーンエイジャーに向けて作られたものでも楽しめるように、プリキュアが主に女児向けに作られていても楽しめるように。

・第二にキャラクターや筋書きには流行があるから、変化を前提としなければならない。
(略)
ということは……長くアニメを観て幸せでいたければ、好みではないアニメもときにはチョイスして、眺めかたを知っておいたほうが良い、ということでもある。「一生アニメを観て幸せ」とのたまうような人なら、そうしているかもしれないが。

((略)は筆者)
今期の『とある魔術の禁書目録』を見て改めて思った、やっぱり流行り廃りはある。とあるの1期放送が10年前で、原作の初版発行が2004年らしい。
ある意味リバイバル的な3期ではあるものの、このアニメだけを見て懐古主義になっているのであれば確かに辛いかもしれない。でも、そうじゃない人も多いと思う。
少なくとも私は、最近のアニメもめっちゃ楽しんでる。良くも悪くも、昔から食わず嫌いせずほぼすべてのアニメを見て楽しもうという意思があったからだとは思う。

・第三に、アニメを観る自分自身は社会的な存在だから、辻褄をあわせなければならない。
(略)
もっと重要なのは、家庭とか、仕事とか、地域とか、介護とか、そういった問題と無縁ではいられない、ということだ。
(略)
しがらみが無いということは、ポジションが無いということでもある。その結果、収入やソーシャルキャピタルが脆弱になって、趣味を楽しむ土台が脅かされるようでは元も子もない。一生アニメを観て幸せに過ごすなら、なんらか、堅牢なライフスタイルをつくっておく必要がある。

((略)は筆者)
一段落の中に矛盾が孕む。辛い。ここは一番辛いと感じているところである。というかここが全てじゃね? って思うくらい辛い。辛すぎる。
大学生のころは、アニメだけに限らずオタク趣味に対して全振りできた。今は大体、仕事に全振りしている。
仕事でメンタル壊して会社を休んだときにお金がほとんどなくなったときは久々に「あ、これは生きなあかん」って思った。ほんと、お金がなくなると、働かねばっていう気持ちが強く出てくるから不思議、その仕事で体壊したくせに。

・第四に、アニメを観る自分自身はフィジカルな存在だから、健康を守らなければならない。
(略)
二十代の頃は歯牙にもかけていなかった健康問題が、じわじわ迫ってきて趣味生活を圧迫する。メンタルもまた肉体に宿るものだから、フィジカルをないがしろにしているとメンタルの側から健康が脅かされるおそれもある。健康に関心を持っていかれてアニメへの関心が減ってしまうこともあるし、健康に時間やお金を費やさざるを得ない局面も増えてくる。こんなことは思春期の頃は考えなくても良かったのだが。

((略)は筆者)
フィジカルは、1年前くらいから筋トレを始めたので悪くはない。が、メンタルはやはり辛い。心を壊して会社を休むことになる直前は、アニメとかそれどころじゃなかった。
個人的にはここは比較的「なんとかなる」エリアだと思っているけれども、突然怪我したり病気したりっていうことはあるので、あくまで「今は」だけども。健康でいたい。


君は、朽ちていった屍を乗り越えられるか?
(略)
私はインターネットの内外で二十年以上、アニメ愛好家の生きざまを見つめ続けてきたけれども、たくさんのアニメ愛好家が朽ち果てていった。

昔は毎日ブログを更新していたような人も、今ウェブサイトにアクセスしてみると更新が数年前に完全に止まっていたり、ブログ自体消滅していたりする。
この前RSSを整理していたが、墓場フォルダ的なところに分類しないといけなかったのが辛かった。

しかしそれでもアニメは面白く、自分だけが楽しむのではなく、誰かにこの面白さを伝えたいという気持ちがいまだに残っている。
だからこんなブログも10年以上続けられる。


そりゃ人間だから、変化しないことなんてないと私は思っているので、変化したっていいと思う。
個人的には、社会人になったことがアニメとの距離を変える大きなきっかけとなったので、これから社会人になろうとしていたり、いま社会人1年目2年目の人に言いたいことがある。
今アニメが好きなのであれば、その気持さえ忘れずにいてくれたらいいと思う。気持ちさえ残っていれば、いつだってアニメは見れるし、楽しめる。

私は、社会人になって、アニメから少しでも離れることになったら、もう一生戻ってこれないのではないか、という恐怖感を強く持っていました。
だから、絶対に離れてやらないという強い意志を持って社会人生活に臨みました。

しかし、仕事内容にもよるだろうしどのくらい仕事に対して情熱を傾けるかにもよるだろうけれども、やっぱりしんどくなってきた。
しんどくなって、アニメから意識的にも無意識的にも離れざるを得なかったような時期が事実あった。

しかし今、こうやって生きているし、アニメを見れているし、ゾンビランドサガのおかげで毎週生かしてもらっているし(ゾンビはもう死んでますけど)、なんならこの5年間ぐらいで一番ブログを書いている。
冒頭に紹介した記事を読んで、大きく3つの反応があるだろうと思う。1つは興味がない人、1つは「俺もやっぱりそうなってしまったよな」と思う人、そして1つは「それでも突き進んでいくぜ」と思った人。どれがいいとかはないけれども、自分はなんとか突き進んでいきたい。自分が死んでも代わりはいるかも知れないけれど、自分が死んだらもう自分が楽しめなくなってしまいますからね。


死んでも夢を叶えたい いいえ 死んでも夢は叶えられる
それは絶望 それとも希望 過酷な運命乗り越えて
脈がなくても突き進む それが私達のサガだから